そツと家を拔け、子供心にも別れを告げるつもりで、裏道づたひにお牧の家をさして歩いてまゐりました。私は人に見つからないやうにと、何《ど》の位《くらゐ》苦心して竹藪の側や田圃中の細い道なぞを通つたか知れません。何故といふに、村で一番不潔な男を親に持つたそのお牧の手に養はれたといふことは、絶えず私が他《ひと》から調戲《からか》はれる材料に成つて居ましたから。私は調戲はれると言ふよりは嬲《なぶ》られるやうな氣がして、その度に堪へ難い侮辱《はづかしめ》を感じて居りました。で、隱れるやうにしてお牧の家まで歩きました。丁度お牧の父親も家に居る時で、例の油染みた髮結の道具などが爐邊に置いてあつたかと覺えて居ます。お牧の家の人達は非常に喜びまして、私のために鍋で茶飯を煮《た》いて呉れました。私が茄子《なす》が好きだからと言つて、皮のまゝ輪切にしたやつを味噌汁にして呉れました。その貧しい爐邊で味つた粗末な『おみおつけ』は、私に取つて一生忘れられないものです。それから三十年あまりの今日まで、どうかして私は彼樣《あゝ》いふ味噌汁を今一度吸ひたいと思つて、幾度同じやうに造らせて見るか解りませんが、二度と彼の味を思出させるやうなのには遭遇《であ》ひません。
片田舍のことですから、私達が東京へ發つ前には毎晩のやうに親しい家々から客に呼ばれました。私は銀さんと一緒にお文さんの家へも呼ばれて行つて、鷄肉《とり》の汁《つゆ》で味をつけた押飯《あふはん》(?)の馳走に成りました。何かにつけて田舍風の饗應を取替《とりかは》すといふことは、殊に私の村では昔から多い習慣のやうに成つて居ました。
出發の前の朝、祖母は私達を爐邊に据ゑまして、食事しながら種々なことを言つて聞かせました。今朝は言ふ、そのかはり明日の朝は何事《なんに》も言はない、そんなことを言つて、長いこと私達を側に坐らせて置いて、別離《わかれ》の涙を流しました。其晩、私は父の書院へも呼び附けられて、五六枚ほど短册に書いたものを餞別として貰ひました。それは私が座右の銘にするやうにと言つて呉れたので、日頃少年の私をつかまへて口の酸くなるほど言つて聞かせた教訓を一つ/\文字に表はして書いたものでした。私はその全部を記憶しませんが、父があの几帳面な書體で認めた短册の中には、あり/\と眼に浮んで來るのもあります。
『行ひは必ず篤敬。云々。』
兄に引連れられて、翌日私達三人の少年は故郷の山村を發ちました。坂になつた驛路の名殘の兩側には、それぞれ屋號のある親しい家々が並んで居ます。私達は一軒々々田舍風な挨拶をするために立寄りました。日頃洗濯や餅つきの手傳ひなどに來る婆さんとか、又は出入の百姓とかの人達までいづれも門に出、石垣の上に立ちして、私達を見送つて呉れました。九月の日のあたつた村はづれまで送つて來て呉れる人もありました。暗い杉の木立の側を通り、澤を越して行きますと、字《あざ》峠と言つて一部落を成したところがあります。その邊まで私達に附いて來て名殘を惜む人もありました。お頭《かしら》の家のある峠を離れて、私達は旅らしい山道に上りました。
その頃は京濱間より外に鐵道といふものも無く、私達の故郷から東京まで行くには一週間も要《かゝ》るほど不便な時でした。それに大きな谷の底のやうな斯の山間《やまあひ》を出て、馬車にでも乘れるといふ處まで行かうとするのには、是非とも高い峠を二つだけは越さなければ成りませんでした。
全く方角も解らなく成つて了つたやうな、知らない道を三日も四日も歩いた後で、私は銀さん達と一緒に左樣いふ峠のしかも險しい石塊《いしころ》の多い山道にさし掛りました。私は風呂敷包を襷にして背中に負《しよ》ひ、洋傘《かうもり》を杖につき、喘《あへ》ぎ喘ぎその坂を攀ぢ登りましたが、次第に歩き疲れて、お文さんの兄さんや銀さんから見ると餘程後れるやうに成りました。日は暮れかけて、山の中は薄暗く見えるやうに成つて來ました。
『金米糖を呉れなけりや、歩けない。』
『呉れるから、歩け。』
私は兄と斯樣な押問答をして、路傍《みちばた》の石に腰掛けては休み/\、復た出掛けました。そのうちに金米糖どころでは無くなつて來ました。私には歩けなく成りました。何となくお腹まで痛く成つて來ました。私は洋傘をそこへ投出して動かずに居たこともあります。すると兄が私の傍へ來て、私の帶へ手拭を結はへ附けまして、それで私を引き立てました。
斯の骨の折れる山道を越して、漸《やつと》のことで峠の下まで歩いて行きますと、澤深い温泉宿のやうな家々の灯が私の眼に嬉しく映りました。そこが中仙道の沓掛《くつかけ》であつたかと覺えて居ます。
何處から馬車に乘つたかといふことも、ハツキリとは記憶しません。唯、前の方へ突進する馬車と……時々|馬丁《べつたう》の吹き
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