斯の婦人に養はれましたが、二番目の兄が國から上京して斯のさまを見た時は、私のために心配し始めた位でした。鷲津の姉さんの早く、早くで、終《しまひ》には私は青く成つて了ひました。

        七

 私は極く早い頃から臆病な性質をあらはしました。銀さんは國に居る頃から私と違ひまして、木登りの惡戲《いたづら》から脚に大きな刺《とげ》などが差さつても親達に見つかる迄はそれを隱して居るといふ方でしたが、私は他《ひと》の身體の疼痛《いたみ》を想像するにも堪へませんでした。東京へ修業に出て來てからも、二番目の兄に連れられて寄席などへ遊びに行きますと、中入前あたりには妙に私は心細く成つて來るのが癖でした。斯の兄は其頃から度々上京しまして旅屋《やどや》に日を送りましたから、私もよく銀座邊の寄席へは連れられて行きましたが、騷がしい樂屋の鳴物だの役者の假白《こわいろ》だのを聞いて居ると、何時でも私は堪へ難いほどの不安な念に襲はれました。その度に、私は兄一人を殘して置いて、寄席から逃げて歸り/\しました。それほど私は臆病でした。
 一方から言へば私は八歳の昔に早や初戀を感じたほどの少年で(そのことは既に貴女に御話しましたが)、その私が鷲津の姉さんのやうな家庭の空氣の中に置かれて、種々な大人の淫蕩《みだら》を見たり聞いたりしながら、しかも少年らしい多くの誘惑から自分を護り得たといふのも、一つは斯の臆病からだと自分で思ひ當ることが有ります。
 二番目の兄は鷲津の姉さんの傍に長く私を置くことを好みませんでした。そこで私は姉や兄達の懇意な豐田さんの家の方へ引取られて、豐田さんの監督の下に勉強することに成つたのです。丁度それは私が十一の年の秋頃でした。
 貴女は十一二といふ年頃をお母さんの側で奈何《どん》な風に送つたでせうか。私は全く獨りで――母からも、姉からも離れて――早くから他人の中へ投げ出されたやうなものでした。それが私に取つての修業といふものでした。私はいかにせば、鷲津の姉さんのやうな性急で氣むづかしい人を喜ばすであらうかと、そんなことに心を碎きました。一旦|等閑《なほざり》にされた私は豐田さんの方へ引移つて、思はぬ深切と温い心とを見つけたのです。
 豐田さんと言へば、姉が東京に居ました時分にはよく私も使に行きましたからそこの細君や隱居さんは全く知らない顏でもありませんでした。姉の家から細い路地を曲つて行くと、鼈甲屋《べつかふや》、時計屋などのある銀座の裏通りの町、そこにある黒い土藏造りの豐田さんの家、鐵格子の箝《はま》つた窓などは、私には既に親しいものでした。私は豐田さんのことを小父さん、隱居さんのことをお婆さんと呼ぶやうに成りました。細君は本來なら小母さんと呼ぶべきでしたが、豐田さんとは大分年も違つて居ましたし、兄でも姉でも斯の人ばかりは豐田の姉さんと言ひましたから、私もそれに倣つて姉さんと呼びました。
 例の往來に面した鐵格子の箝つた窓――私に取つては忘れることの出來ない朝に晩に行つた窓――その窓の下にある三疊ばかりの小部屋に私は鷲津さんの家から運んで行つた自分の机を置きました。壁によせて、抽斗《ひきだし》の附いた本箱をも置きました。抽斗の中には上京の折に父が餞別に書いて呉れた座右の銘なぞが入れてあります。稀《たま》には私は幾枚かある其短册を取出して見ます。『温良恭謙讓』と一行に書いたのがあれば『勉強』とか『儉約』とかの文字をいくつも書き並べたのもあります。私は器械的に繰返して見て、寧ろ父の手蹟を見るといふだけに滿足して、復た紙に包んで元の抽斗の中へ藏つて置きました。國許の父からはよく便りがありました。父は村の中の眺望《ながめ》の好い位置を擇んで小さな別莊を造つたとかで、母と共に新築の家の方へ移つたことや、その建物から見える遠近《をちこち》の山々、谷、林のさまなどを書いて寄《よこ》しました。其頃から漸く私も父へ宛てゝ手紙を書くやうに成りました。時には豐田の小父さんがニコ/\しながら私の机の側へ來まして、
『お父さんの許《とこ》へ奈樣《どん》な手紙を書いたか、お見せ。そんなことを隱すもんぢや無い。』
 と言ひますから、私が學校の作文でも書くやうに半紙に書きつけた手紙を出して見せますと、小父さんは笑つて、それを奧の方に居るお婆さんや姉さんのところへ持つて行つて讀んで聞かせたりなどしました。『むう、斯の手紙はなか/\好く出來た』なんて小父さんは私を勵ました後で、是處は斯う書けとか、彼處は彼樣《あゝ》直せとか言つて呉れました。道さん――ホラ、お文さんの直ぐ上の兄さん――からもめづらしく便りがありました。私は窓の下にその幼友達の手紙を展げて、何度も/\繰返し讀みました。二年あまり半分夢中で都會に暮して來た私の心は田舍々々した日のあたつた故郷の田圃側の
前へ 次へ
全24ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング