どには、よくまた小父さんに連れられて行つたものです。乞食の集つて居るやうな薄暗いところから急に明るい群集《ひとごみ》の中へ出ることは、妙に私の心を唆《そゝ》りました。小父さんは夜見世をひやかすのが好きで、私を連れては種々な物のごちや/\並んだ露店の前を眺め/\歩きました。
斯の手紙を書きかけて居るうちに、私は今一寸こゝで、姉の家や鷲津さんの家を振返つて見たいやうな心が起りました。といふはあの二軒の家に有るもので、豐田さんの家には無いものがあります。私の生れた家にも無いものです。私が姉の家に居る頃、あそこの祖母《おばあ》さんが時々なぐさみに琴を鳴らしたことを貴女に御話しましたらう。小さな甥までが謠曲《うたひ》の一ふしぐらゐは諳記《そらん》じて居ることを御話しましたらう。鷲津さんの家が矢張それで、しめやかな小唄でも口吟《くちずさ》んで見るやうな聲が老人《としより》の部屋から時々|泄《も》れて聞えました。左樣いふ音樂の空氣といふものは豐田さんの家の方へ移つてからは、バツタリ無くなりました。
何故私が斯樣なことを御話するかといふに、あの甥の一生を考へ、豐田さんの家に殘つた人達のことを思ひ、又今日までの私自身の生涯を辿つて見るに、斯の家に附いた空氣は何處までも同じやうに流れて行つて居ますから、それは實に爭はれないものだと思ひます。私の父はあれでもいくらか横笛を吹いたといふことですが、私の兄弟で好い耳を持つて居るやうなものは一人も居りません。あの甥の造つた家庭には、別に樂器を置かないまでも、何處かに音樂の空氣の流れた好ましいところが有りました。あの甥の一生がそれでした。私は自分自身がもうすこし寛濶であつても好いと思ふことは度々ですが、しかしそれを奈何することも出來ません。私が今住む家は殆んど周圍《まはり》を音樂で取繞《とりま》かれて居るやうなところにあります。表へ出れば一中節の師匠、裏へ行けば常磐津の家元、左樣いふ町の中に住ひながら、未だに私は自分の家へやはらかな空氣を取入れることも出來ずに居ります。
それから比べて見ますと、繪畫に趣味を有つことは――私はその性質を身に近い女達にも、自分の子供にも見つけることが出來るやうに思ひます。私自身にも繪畫を好むことは天性に近いやうな氣がします。少年の時代から、いくらか進んだ普通教育を受けるまで、私は最もそれを得意にしました。斯の傾
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