向《かたむき》はずつと早い頃からあらはれまして、豐田さんの家へ行つて二年目に成る頃には、私は柔い鉛筆と畫學紙を携へて、築地の居留地の方までも鉛筆畫を作りに出掛けたことがあります。豐田のお婆さんは私が何をするかと思つて、ある日、私の行く方へ一緒に歩いて來ました。私はお婆さんを橋の畔に立たせて置いて、築地邊の景色を寫しました。私は又、參謀本部の方までも行つて、あの建物を寫した鉛筆畫を一枚作りました。それは粗末な子供らしいもので有りましたが、兎も角も、御手本に據らないで、自分で見たまゝを畫にしようと骨折つたものでした。小父さんに勸められて私は左樣いふ小さな製作の一つを國の方へ送りました。父から來た手紙の中には、『貴樣は繪畫を學ぶが好からうと思ふ』といふ意味のことを書いて寄したことも有りました。
お婆さんや姉さんが私のために注意して居て呉れたことは、銀さんの着物の世話まで屆いたのを見ても解ります。私達兄弟の少年は二人だけ東京に殘つて居てもめつたに逢ふやうな機會は有りませんでした。なにしろ銀さんは御店《おたな》ずまひの身で、宿入の時より外には豐田さんの家へも來られませんでしたから。で、銀さんの着物の洗濯でも出來た時には私の方から持つて行きました。日本橋の本町です。風呂敷包を携《かゝ》へながら紙問屋の店頭《みせさき》まで行きますと、そこに居る番頭が直ぐ私を見つけまして、小僧にそれと知らせたものです。銀さんは前垂の塵埃《ほこり》を拂ひながら、奧の藏の方から出て來て、庭で荷造りする人達の間などを通りましてそれから私の方へ來ました。私の口から言つては可笑しいやうですが、銀さんも大きく成りました。それに髮などを短くしまして、すつかり御店風《おたなふう》に成りました。私達二人は店の横手の日のあたつた土藏のところに倚凭《よりかゝ》りながら、少年らしい簡單な言葉を交換《とりかは》すのみでした。
私は勤奉公する銀さんから自分の自由な身を羨み見られるのがツライと思つたことも有り、時にはいそがしさうな店頭の樣子を眺めて、碌に話もせずに別れて來ることが有りました。左樣いふ時には、私達は唯ニツコリ顏を見合せるに過ぎませんでした。銀さんも亦默つて私の手から洗濯着物を受取つて、御店の方へ引込んで行つて了ひました……
ある日、豐田さんの家では田舍から女の客を迎へました。お霜婆がめづらしく訪ねて來たので
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