い通りへ出、丸茂といふ紙店の前を過ぎ、(あの紙店では私達はよく清書の『おとりかへ』をして貰つたり黄ばんだ駿河半紙を買つたりしました。)それから數寄屋河岸について赤煉瓦の學校へ通ひました。どうかすると六ちやんと二人で辨當の空箱を振りくりながら歸つて來て、往來の眞中へぶちまけたことも有りました。
 豐田の姉さんは性來多病で――多病な位ですから怜悧《りこう》な性質の婦人だと他《ひと》から言はれて居ました――起きたり臥たりしてるといふ方でしたから、直接《ぢか》に私の面倒を見て呉れたのは主にお婆さんでした。
『お婆さん、霜燒《しもやけ》が痒《かゆ》い。』
 そんなことを言つて夜中に私が泣きますと、お婆さんは臥床《ねどこ》から身《からだ》を起して、傷み腫れた私の足を叩いて呉れました。
 斯のお婆さんは私に、行儀といふものを見覺えなければ成らないと言つて、種々な細い注意を拂ふことを教へました。客の送迎《おくりむかへ》は私の役※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りでしたが、私はお婆さんに言ひ附けられた通り客の下駄を直し、茶などもよく運んで行きました。
『江戸は火事早《くわじばや》いよ。』
 これがお婆さんの口癖でした。お婆さんに言はせると、東京は生馬《いきうま》の眼でも拔かうといふ位の敏捷な氣風のところだ、愚圖々々して居ては駄目だ、第一都會の人は物の言ひ方からして違ふ――よくそれを私に言つて聞かせたものでした。姉さんも笑ひながら、
『そりや、お前さん、東京の人の話は「何」で通るからネ。ちよいとあの何を何して下さいナ――あの何ですが――それでお前さん、話がもうちやんと解つて了ふんだからネ。えらいよ。』 
 斯樣な風に言つて聞かせました。地方から出て來た斯の姉さんでもお婆さんでも、小父さんを助けて、都會で自分等の運命を築き上げようとする健氣《けなげ》な人達でした。
 めづらしく姉さんの氣分の好い日が續いて、屋外《そと》へでも歩きに行かうといふ夕方などは、お婆さんは非常に悦びました。その頃、尾張町の角のところには毎晩のやうに八百屋の市が立ちました。私は靜かに歩いて行く姉さんやお婆さんの後に隨いて、買物に集る諸方《はう/″\》の内儀さんだの、市場の灯だの、積み重ねた野菜と野菜の間だのを歩き※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]るのを樂みにしました。銀座の縁日の晩な
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