せんでした。
御承知の通り、狹い田舍では大抵の家が遠い親類の形に成つて居ます。左樣いふ家の一つに、丁度お文さんと同い年ぐらゐな娘がありました。惡戲《いたづら》好きな學校の朋輩は、その娘の名と私の名とを並べて書いて見たり、課業を終つて思ひ/\に歸つて行く頃には、杉の樹のあるお寺の坂の上あたりから、大きな聲で呼ばつたりしたものです。
それを聞くと私は、
『糞を喰《くら》へ。』
といふ風で、吾家を指して歸りました。
それから九歳《こゝのつ》の秋に東京へ遊學に出掛けるまで、私の好きなことは山家の子供らしい荒くれた遊びでした。次第に私は遠く行くやうに成つて、男の友達と一緒に深い澤の方まで虎杖《いたどり》の莖などを折りに行き、『カルサン』といふ勞働の袴を着けた太助の後に隨いて、松薪《まつまき》の切倒してある寂しい山林の中を歩き※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]り、路傍《みちばた》に『酸《す》い葉《ば》』でも見つけると、それを生でムシヤ/\食ひました。太助とは、山の神の祠《ほこら》のあるところへ餅を供へにも行つたことが有ります。都會の子供などと違ひ、玩具も左樣《さう》自由に手に入りません。私は竹と半紙で『するめ紙鳶《だこ》』を手造りにすることを覺えました。それを村はづれの岡の上へ持つて行つて、他の子供と競爭で揚げました。『シヨクノ』――東京の言葉でいふ『ネツキ』は、最も私の心を樂ませた遊びです。木は不自由しない村ですから、私は太助の鉈序《なたついで》に、強さうな木の尖端《さき》を鋭く削つて貰ひました。どうかすると霜枯れた田圃側には、多勢村の少年が群がつて、斯の『シヨクノ』を土の中に打込んで遊びました。私の父はヤカマしいので、斯ういふ遊びに勝つても、表から公然と擔ぎ込む譯に行きません。左樣いふ時に、都合の好いのはお霜婆の家でした。
銀さんと私とがいよ/\上京と定《き》まつた頃は、母の織る機がいそがしさうに響きました。母は私の爲にヨソイキの角帶を織りました。なにしろ私はまだ田舍の小學校で僅か學んだばかりで、小さな旅の鞄に金米糖を入れて呉れるからと言はれて、それを樂みに遊學の日を待つほどの少年でした。
五
旦那樣はじめ、お子樣がた御變りもなき由、殊に此節は幼い二人を相手に樂しい日を送つて居らるゝとか。先頃子供の許《ところ》へ贈つて下すつた
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