まだそれほど遠く行きませんでした。でも裏の田圃道に出て、高い樹木の上の方に小鳥の囀るのを聞くのは樂みでした。田圃|側《わき》には『スイコギ』の葉を垂れたのが有りました。それを採つて、鹽もつけずに食ひました。村の學校のあつた小山の下のところには細い谷川が流れて居ます。そこへ私はお牧から借りた笊《ざる》を持つて行つて鰍《かじか》をすくつたことも有ります。お文さんも腕まくり、裾からげで、子供らしい淡紅色《ときいろ》の腰卷まで出して、石の間に隱れて居る鰍を追ひました。
 何時の間にか私は斯の隣の家の娘と二人ぎり隱れるやうな場所を探すやうに成りました。私達は桑畠の間にある林檎の樹の下を歩き又は玄關から細長い廂風《ひさしふう》の小座敷を通り拔けて、上段の間の横手に坪庭の梨の見えるところへ行きました。すると極りで、若い嫂が私達を探しに來ました。
 お牧、お霜婆、斯の手紙には私は主に少年の眼に映じた婦人のことを貴女に書く積りですから、その順序として幼少《をさな》い隣の家の娘のことを御話するのです。有體《ありてい》に言へば、私は女といふものに初めて子供らしい情熱を感じました。私はお文さんを堅く抱締めたこともあります。斯の子供らしさは、近所の他の家の娘にも起りました。私は三日ばかり激しい情熱に苦められたことを覺えて居ます。尤もその娘のことは直と忘れて了ひましたが……
 ある日、私はお文さんに誘はれて隣の家へ遊びに行きました。酒屋の香氣《にほひ》のする庭を通り拔けて、藏造りになつた二階の部屋へ上つて見ました。隣とはよく往來《ゆきゝ》をしましたが、そんなに奧の方まで連れられて行つたのは私には初めてです。丁度そこへお文さんの兄さんの道さんがやつて來ました。道さんはお文さんや私より二ツ三ツ年長《うへ》の少年で、村の學校でも評判な好く出來る生徒でした。
 其日まで私は夢中でお文さんと遊んで居て、第三者といふものの有ることを知りませんでした。お文さんの部屋で、道さんと一緒に成つて見て、それが解つて來ました。私は唯道さんに見られたといふだけで、何となく少年らしい羞恥を感じました。それきり私はお文さんを離れて、今度は道さんだの、それから他の男の兒と遊ぶやうに成りました。
 お文さんは相變らず吾家《うち》へ手習に通ひました。しかし私が道さん達の仲間入をするやうに成つてからは、以前のやうに彼女と親しくしま
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