んにょう+囘」、第4水準2−12−11]りながら漸くのことで龜の隱れて居るところへ行きました。其時、子供等は勝誇つたやうな聲を揚げて、喜び騷ぎました。
どうかすると私は斯樣な串談《じやうだん》をして、子供を相手に遊び戲れます。斯ういふ私を生んだ父は奈樣《どん》な人であつたかと言へば、それは嚴格で、父の膝などに乘せられたといふ覺えの無い位の人でした。父は家族のものに對して絶對の主權者で、私等に對しては又、熱心な教育者でした。私は父の書いた三字經を習ひ、村の學校へ通ふやうに成つてからは、大學や論語の素讀を父から受けました。あの後藤點の栗色の表紙の本を抱いて、おづ/\と父の前に出たものです。
父の書院は表庭の隅に面して、古い枝ぶりの好い松の樹が直ぐ障子の外に見られるやうな部屋でした。赤い毛氈《まうせん》を掛けた机の上には何時でも父の好きな書籍が載せてありましたが、時には和算の道具などの置いてあるのを見かけたことも有ります。父はよく肩が凝ると言ふ方でして、銀さんと私とが叩かせられたものですが、肩一つ叩くにも只は叩かせませんでした。歴代の年號などを暗誦させました。終《しまひ》には銀さんも私も逃げてばかり居たものですから、金米糖《こんぺいたう》を褒美に呉れるから叩けとか、按摩賃を五厘づゝ遣るから頼むとか言ひました。
『享保、元祿……』
私達は父の肩につかまつて、御經でもあげるやうに暗誦しました。
何ぞといふと父が私達に話して聞かせることは、人倫五常の道でした。私は子供心にも父を敬ひ、畏れました。しかし父の側に居ることは窮屈で堪りませんでした。それに父が持病の癇《かん》でも起る時には、夜眠られないと言つて、紙を展げて、遲くまで獨りで物を書きました。その蝋燭を持たせられるのが私でしたが、私は唯眠くて成りませんでした。
斯うした嚴格な父の書院を離れて、仲の間の方へ行きますと、そこには母や嫂が針仕事をひろげて居ります。私は武者繪の敷寫しなどをして、勝手に時を送りました。母達の側には別に小机が置いてあつて、隣の家の娘がそこで手習ひをしました。お文《ぶん》さんと言つて、私と同年で、父から讀書《よみかき》を受ける爲に毎日通つて來たのです。父を『お師匠樣』と呼んだのは斯の娘《こ》ばかりでなく、村中の重立つた家の子はあらかた父の弟子でした。中には隣村から通つて來るものも有りました。
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