るい光線の射し込む部屋で、母や嫂が針仕事をひろげたところでした。障子を明けると、細長い坪庭を隔てゝ石垣の下に叔母の家の板屋根などが見え、ずつと向ふの方には遠い山々、展けた谷、見霞むやうな廣々とした平野までも望みました。丁度私の田舍は高い山の端《はづれ》で、一段づゝ石垣を築いて、その上に村落を造つたやうな位置にあります。私の家はその中央《なかほど》にありました。叔母の家といふはお霜|婆《ばあ》といふ女に貸してありましたが、心易く私の家へ出入した人でした。そこから通つて來るには是非とも坂道の往來を上らなければなりませんでした。
 お霜婆はてか[#「てか」に傍点]/\した禿を薄い髮の毛で隱して居るやうな女でした。若い女中を一人使つて、女ばかりで暮して居ました。どうして斯樣な人が叔母の家を借りて居たのか、皆目《かいもく》私には解りませんでしたが、兎《と》に角《かく》村の旦那衆がよく集るところではありました。お霜婆は私を可愛がつて呉れましたから、私も遊びに行き/\しまして、半ば自分の家のやうに心易く思つた位でした。旅の飴屋が唐人笛などを吹いて通ると、必《きつ》とそれを呼んで、棒の先にシヤブるやうにした水飴を私に買つて呉れたのも、斯の婆さんでした。しかしお霜婆の可愛がりやうは、太助やお牧などと違つて、どこか煩《うるさ》いやうなところが有りました。どうして、ナカ/\御世辭ものでした。
 斯のお霜婆に就いて、私は片意地な性質を顯はしました。お霜婆の家でも毎年蠶を飼ひましたが、ある時私は婆さんの大切にして居る蠶に煙草の脂《やに》を嘗《な》めさせました。斯の惡戲《いたづら》は非常に婆さんを怒らせました。その時から私は婆さんと仲違《なかたが》ひして、婆さんの家の前は除《よ》けて通り、婆さんが家へ來て言葉を掛ける時でも私は口も利かなく成つて了ひました。子供ながらに私はそれを六十日の餘も續けました。
 そのうちに村の祭が來ました。私は銀さんとお揃ひで黒い半被《はつぴ》を造つて貰ひました。背中に家の紋を白く見せたものでした。火の用心の腰巾着もぶら下げました。折角《せつかく》祭の仕度が出來た、仲直りがてらお霜婆に見せて來るが好からう、と兄が言つて、嫌がる私を無理やりに背中に乘せ婆さんの家へ舁《かつ》ぎ込みました。兄に置いて行かれた後で、婆さんが何と言つても私は聞入れませんでした。私は足をバタ/\
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