んであつて、越後粽の三角なのとも異り、私の故郷の方で造るのとも違ひました。子供の甘さうに食つて居る傍で、私はその笹の葉を笛のやうに鳴らして聞かせました。
今笑つて居る、直に復たぐづり出す、一度泣出したら地團太《ぢだんだ》踏むやら姉さん達に掻附くやら、容易には納まらないのが弟の方の子供です。何故子供といふものは、もつと自然に育てられないのかしら――何故斯う威かしたり欺したり時には殘酷な目にまで逢はせなければ育てられないのかしら――私は時々そんなことを思ひます。頭の一つもブン擲らずに濟ませるものなら、成るべく私はそんな眞似もしたくない。左樣思つて控へて居りますと、『貴方がたの父さんは御砂糖だと見えますネ』などと人々には笑はれる。終《しまひ》には世話するものまで泣いて了ふ。見るに見兼ねて、何時でも私がそこへ出なければ成らないやうなことに成ります。どうかすると私は憤怒の情に驅られて、子供を叱責する前に、激しく自分の唇を噛むことも有ります。憐むべき Domestic Animal……なにしろ弟の方の子供は丁度今が荒々しい、手に負へない盛りですから……
どれ、私の生れた家の方へ貴女の想像を誘つて行つて、舊い屋敷をお目に掛けませう。
母がよく腰掛けた機《はた》の置いてある板の間は、一方は爐邊へ續き、一方は父の書院の方へ續くやうに成つて居ました。斯の板の間に續いて、細長い廂風《ひさしふう》の座敷がありまして、それで三間《みま》ばかりの廣い部屋をぐるり[#「ぐるり」に傍点]と取圍《とりま》くやうに出來て居りました。斯の部屋々々は以前本陣と言つた頃に役に立つたので、私の覺えてからは、奧の部屋などは特別の客でもある時より外に使はない位でした。別に上段の間といふのが有りました。そこは一段高く設けた奧深い部屋で、白い縁《へり》の疊などが敷いてあり、昔大名の寢泊りしたところとかで、私が子供の時分には唯床の間に古い鏡や掛物が掛けてあるばかりでした。父はそこを神殿のやうにして、毎朝神樣を拜みましたから、私も眼が覺めると母に連れられて御辭儀に行つたものです。それほど父は嚴格な、神信心な人でした。髮なども長くして、それを紫の紐で束ねて、後の方へ垂れて居ました。上段の間を隔てゝ、寛《くつろ》ぎの間といふのも有つて、そこが兄の居間に成つて居りました。村の旦那衆はよくそこへ話しに集りました。仲の間は明
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