ってみてもいいけれど。」
 そういう三郎は左を得意としていた。腕押しに、骨牌《かるた》に、その晩は笑い声が尽きなかった。
 翌日はもはや新しい柱時計が私たちの家の茶の間にかかっていなかった。次郎はそれを厚い紙箱に入れて、旅に提《さ》げて行かれるように荷造りした。
 その時になってみると、太郎はあの山地のほうですでに田植えを始めている。次郎はこれから出かけようとしている。お徳もやがては国をさして帰ろうとしている。次郎のいないあとは、にわかに家も寂しかろうけれど、日ごろせせこましく窮屈にのみ暮らして来た私たちの前途には、いくらかのゆとりのある日も来そうになった。私は私で、もう一度自分の書斎を二階の四畳半に移し、この次ぎは客としての次郎をわが家《や》に迎えようと思うなら、それもできない相談ではないように見えて来た。どうせ今の住居《すまい》はあの愛宕下《あたごした》の宿屋からの延長である。残る二人の子供に不自由さえなくば、そう想《おも》ってみた。五十円や六十円の家賃で、そう思わしい借家のないこともわかった。次郎の出発を機会に、ようやく私も今の住居《すまい》に居座《いすわ》りと観念するようになっ
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