寄ったと言って、改まった顔つきで帰って来た。餞別《せんべつ》のしるしに贈られたという二枚の書をも私の前に取り出して見せた。それはみごとな筆で大きく書いてあって、あの四方木屋《よもぎや》の壁にでも掛けてながめ楽しむにふさわしいものだった。
 「とうさん、番町の先生はそう言ったよ。いろいろな人の例を僕に引いてみせてね、田舎《いなか》へ引っ込んでしまうと画《え》がかけなくなるとサ。」
 と、次郎はやや不安らしく言ったあとで、さらに言葉を継いで、
 「それから、こういうものをくれてよこした。田舎《いなか》へ行ったら読んでごらんなさいと言って僕にくれてよこした。何かと思ったら、『扶桑陰逸伝《ふそういんいつでん》』サ。画《え》の本でもくれればいいのに、こんな仙人《せんにん》の本サ。」
 「仙人の本はよかった。」と、私も吹き出した。
 「これはとうさんでも読むにちょうどいい。」
 「とうさんだって、まだ仙人には早いよ。」
 「しかしお餞別《せんべつ》と思えばありがたい。きょうは番町でいろいろな話が出たよ。ヴィルドラックという人の持って来たマチスの画《え》の話も出たよ。きょうの話はみんなよかった。それ
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