たものである。しかし、もう一度この屋根の下に辛抱《しんぼう》してみようと思う心はすでにその時に私のうちにきざして来た。
今一つは、次郎の事だ。私は太郎から聞いて来た返事を次郎に伝えて、いよいよ郷里のほうへ出発するように、そのしたくに取り掛からせることにした。
「次郎ちゃん、番町《ばんちょう》の先生のところへも暇乞《いとまご》いに行って来るがいいぜ。」
「そうだよ。」
私たちはこんな言葉をかわすようになった。「番町の先生」とは、私より年下の友だちで、日ごろ次郎のような未熟なものでも末たのもしく思って見ていてくれる美術家である。
「今ある展覧会も、できるだけ見て行くがいいぜ。」
「そうだよ。」
と、また次郎が答えた。
五月にはいって、次郎は半分引っ越しのような騒ぎを始めた。何かごとごと言わせて戸棚《とだな》を片づける音、画架や額縁《がくぶち》を荷造りする音、二階の部屋を歩き回る音なぞが、毎日のように私の頭の上でした。私も階下の四畳半にいてその音を聞きながら、七年の古巣からこの子を送り出すまでは、心も落ちつかなかった。仕事の上手《じょうず》なお徳は次郎のために、郷里のほうへ行
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