、幅広で鋭くとがったあの笹の葉は忘れ難《がた》い。私はまた、水に乏しいあの山の上で、遠いわが家《や》の先祖ののこした古い井戸の水が太郎の家に活《い》き返っていたことを思い出した。新しい木の香のする風呂桶《ふろおけ》に身を浸した時の楽しさを思い出した。ほんとうに自分の子の家に帰ったような気のしたのも、そういう時であったことを思い出した。
 しかし、こういう旅疲れも自然とぬけて行った。そして、そこから私が身を起こしたころには、過ぐる七年の間続きに続いて来たような寂しい嵐《あらし》の跡を見直そうとする心を起こした。こんな心持ちは、あの太郎の家を見るまでは私に起こらなかったことだ。
 留守宅には種々な用事が私を待っていた。その中でも、さしあたり次郎たちと相談しなければならない事が二つあった。一つは見つかったという借家の事だ。さっそく私は次郎と三郎の二人《ふたり》を連れて青山方面まで見に行って来た。今少しで約束するところまで行った。見合わせた。帰って来て、そんな家を無理して借りるよりも、まだしも今の住居《すまい》のほうがましだということにおもい当たった。いったんは私の心も今の住居《すまい》を捨て
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