遠い高原がある、とその窓から指《さ》して言うことができた。
「おかげで、いい家ができました。太郎さんにくれるのは惜しいような気がして来ました。これまでに世話してくださるのも、なかなか容易じゃありません。私もまた、時々本でも読みに帰ります。」
と、私は森さんに話したが、礼の心は言葉にも尽くせなかった。
翌日になっても、私は太郎と二人《ふたり》ぎりでゆっくり話すような機会を見いださなかった。嫂《あによめ》の墓参に。そのお供に。入れかわり立ちかわり訪《たず》ねて来る村の人たちの応接に。午後に、また私は人を避けて、炉ばたつづきの六畳ばかりの部屋《へや》に太郎を見つけた。
「とうさん、みやげはこれっきり?」
「なんだい、これっきりとは。」
私は約束の柱時計を太郎のところへ提《さ》げて来られなかった。それを太郎が催促したのだ。
「次郎ちゃんが来る時に、時計は持たしてよこす。」と言ったあとで、ようやく私は次郎のことをそこへ持ち出した。「どうだろう、次郎ちゃんは来たいと言ってるが、お前の迷惑になるようなことはなかろうか。」
「そんなことはない。あのとおり二階はあいているし、次郎ちゃんの
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