たよりいい家だ。よっぽど森さんにはお礼を言ってもいいね。」
 わずかにこんな話をしたかと思うと、また太郎はいそがしそうに私のそばから離れて行った。そこいらには、まだかわき切らない壁へよせて、私たちの荷物が取り散らしてある。末子は姪《めい》の子供を連れながら部屋部屋をあちこちとめずらしそうに歩き回っている。嫂《あによめ》も三十年ぶりでの帰省とあって、旧《ふる》なじみの人たちが出たりはいったりするだけでも、かなりごたごたした。
 人を避けて、私は眺望《ちょうぼう》のいい二階へ上がって見た。石を載せた板屋根、ところどころに咲きみだれた花の梢《こずえ》、その向こうには春深く霞《かす》んだ美濃《みの》の平野が遠く見渡される。天気のいい日には近江《おうみ》の伊吹山《いぶきやま》までかすかに見えるということを私は幼年のころに自分の父からよく聞かされたものだが、かつてその父の旧《ふる》い家から望んだ山々を今は自分の新しい家から望んだ。
 私はその二階へ上がって来た森さんとも一緒に、しばらく窓のそばに立って、久しぶりで自分を迎えてくれるような恵那《えな》山にもながめ入った。あそこに深い谷がある、あそこに
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