》あたりをさんざんさがし回ったあげく、住み心地《ごこち》のよさそうな借家も見当たらずじまいに、むなしく植木坂《うえきざか》のほうへ帰って行った。いつでもあの坂の上に近いところへ出ると、そこに自分らの家路が見えて来る。だれかしら見知った顔にもあう。暮れから道路工事の始まっていた電車通りも石やアスファルトにすっかり敷きかえられて、橡《とち》の並み木のすがたもなんとなく見直す時だ。私は次郎と二人《ふたり》でその新しい歩道を踏んで、鮨屋《すしや》の店の前あたりからある病院のトタン塀《べい》に添うて歩いて行った。植木坂は勾配《こうばい》の急な、狭い坂だ。その坂の降り口に見える古い病院の窓、そこにある煉瓦塀《れんがべい》、そこにある蔦《つた》の蔓《つる》、すべて身にしみるように思われてきた。
下女のお徳は家のほうに私たちを待っていた。私たちが坂の下の石段を降りるのを足音できき知るほど、もはや三年近くもお徳は私の家に奉公していた。主婦というもののない私の家では、子供らの着物の世話まで下女に任せてある。このお徳は台所のほうから肥《ふと》った笑顔《えがお》を見せて、半分子供らの友だちのような、慣れ慣れ
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