ちゃった。」
 と言い出すのは三郎だ。
 「とうさん、僕と三ちゃんと二人で行ってさがして来るよ。いい家があったら、とうさんは見においで。」
 次郎は次郎でこんなふうに引き受け顔に言って、画作の暇さえあれば一人《ひとり》でも借家をさがしに出かけた。
 今さらのように、私は住み慣れた家の周囲を見回した。ここはいちばん近いポストへちょっとはがきを入れに行くにも二|町《ちょう》はある。煙草屋《たばこや》へ二町、湯屋へ三町、行きつけの床屋《とこや》へも五六町はあって、どこへ用達《ようたし》に出かけるにも坂を上《のぼ》ったり下《くだ》ったりしなければならない。慣れてみれば、よくそれでも不便とも思わずに暮らして来たようなものだ。離れて行こうとするに惜しいほどの周囲でもなかった。
 実に些細《ささい》なことから、私は今の家を住み憂《う》く思うようになったのであるが、その底には、何かしら自分でも動かずにいられない心の要求に迫られていた。七年住んでみればたくさんだ。そんな気持ちから、とかく心も落ちつかなかった。

 ある日も私は次郎と連れだって、麻布《あざぶ》笄町《こうがいちょう》から高樹町《たかぎちょう
前へ 次へ
全82ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング