ちゃった。」
と言い出すのは三郎だ。
「とうさん、僕と三ちゃんと二人で行ってさがして来るよ。いい家があったら、とうさんは見においで。」
次郎は次郎でこんなふうに引き受け顔に言って、画作の暇さえあれば一人《ひとり》でも借家をさがしに出かけた。
今さらのように、私は住み慣れた家の周囲を見回した。ここはいちばん近いポストへちょっとはがきを入れに行くにも二|町《ちょう》はある。煙草屋《たばこや》へ二町、湯屋へ三町、行きつけの床屋《とこや》へも五六町はあって、どこへ用達《ようたし》に出かけるにも坂を上《のぼ》ったり下《くだ》ったりしなければならない。慣れてみれば、よくそれでも不便とも思わずに暮らして来たようなものだ。離れて行こうとするに惜しいほどの周囲でもなかった。
実に些細《ささい》なことから、私は今の家を住み憂《う》く思うようになったのであるが、その底には、何かしら自分でも動かずにいられない心の要求に迫られていた。七年住んでみればたくさんだ。そんな気持ちから、とかく心も落ちつかなかった。
ある日も私は次郎と連れだって、麻布《あざぶ》笄町《こうがいちょう》から高樹町《たかぎちょう
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