前あたりで、大騒ぎを始めた。暮れの築地《つきじ》小劇場で「子供の日」のあったおりに、たしか「そら豆の煮えるまで」に出て来る役者から見て来たらしい身ぶり、手まねが始まった。次郎はしきりに調子に乗って、手を左右に振りながら茶の間を踊って歩いた。
 「オイ、とうさんが見てるよ。」
 と言って、三郎はそこへ笑いころげた。

 私たちの心はすでに半分今の住居《すまい》を去っていた。
 私は茶の間に集まる子供らから離れて、ひとりで自分の部屋《へや》を歩いてみた。わずかばかりの庭を前にした南向きの障子からは、家じゅうでいちばん静かな光線がさして来ている。東は窓だ。二枚のガラス戸越しに、隣の大屋《おおや》さんの高い塀《へい》と樫《かし》の樹《き》とがこちらを見おろすように立っている。その窓の下には、地下室にでもいるような静かさがある。
 ちょうど三年ばかり前に、五十日あまりも私の寝床が敷きづめに敷いてあったのも、この四畳半の窓の下だ。思いがけない病が五十の坂を越したころの身に起こって来た。私はどっと床についた。その時の私は再び起《た》つこともできまいかと人に心配されたほどで、茶の間に集まる子供らまで一
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