から先生の奥さんも、御飯を一緒に食べて行けと言ってしきりに勧めてくだすったが、僕は帰って来た。」
 先輩の一言一行も忘れられないかのように、次郎はそれを私に語ってみせた。
 いよいよ次郎の家を離れて行く日も近づいた。次郎はその日を茶の間の縁先にある黒板の上に記《しる》しつけて見て、なんとなくなごりが惜しまるるというふうであった。やがて、荷造りまでもできた。この都会から田舎へ帰って行く子を送る前の一日だけが残った。
 「どっこいしょ。」
 私がそれをやるのに不思議はないが、まだ若いさかりのお徳がそれをやった。お徳も私の家に長く奉公しているうちに、そんなことが自然と口に出るほど、いつのまにか私の癖に染まったと見える。
 このお徳は茶の間と台所の間を往《い》ったり来たりして、次郎の「送別会」のしたくを始めた。そういうお徳自身も遠からず暇を取って、代わりの女中のあり次第に国もとのほうへ帰ろうとしていた。
 「旦那《だんな》さん、お肴屋《さかなや》さんがまいりました。旦那さんの分だけ何か取りましょうか。次郎ちゃんたちはライス・カレエがいいそうですよ。」
 「ライス・カレエの送別会か。どうしてあんなものがそう好きなんだろうなあ。」
 「だって、皆さんがそうおっしゃるんですもの。――三ちゃんでも、末子さんでも。」
 私はお徳の前に立って、肴屋《さかなや》の持って来た付木《つけぎ》にいそがしく目を通した。それには河岸《かし》から買って来た魚《さかな》の名が並べ記《しる》してある。長い月日の間、私はこんな主婦の役をも兼ねて来て、好ききらいの多い子供らのために毎日の総菜《そうざい》を考えることも日課の一つのようになっていた。
 「待てよ。おれはどうでもいいが、送別会のおつきあいに鮎《あゆ》の一尾《いっぴき》ももらって置くか。」
 と、私はお徳に話した。
 「末ちゃん、おまいか。」
 と、私はまた小さな娘にでも注意するように末子に言って、白の前掛けをかけさせ、その日の台所を手伝わせることも忘れなかった。
 「ほんとに、太郎さんのようなおとなしい人のおよめさんになるものは仕合わせだ。わたしもこれでもっと年でも取ってると――もっとお婆《ばあ》さんだと――台所の手伝いにでも行ってあげるんだけれど。」
 それが茶の間に来てのお徳の述懐だ。
 茶の間には古い柱時計のほかに、次郎が銀座まで行って買って来た新しいのも壁の上に掛けてあった。太郎への約束の柱時計だ。今度次郎が提《さ》げて行こうとするものだ。それが古い時計と並んで一緒に動きはじめていた。
 「すごい時計だ。」
 と、見に来て言うものがある。そろそろ夕飯のしたくができるころには、私たちは茶の間に集まって新しい時計の形をいろいろに言ってみたり、それを古いほうに比べたりした。私の四人の子供がまだ生まれない前からあるのも、その古いほうの時計だ。
 やがて私たちは一緒に食卓についた。次郎は三郎とむかい合い、私は末子とむかい合った。
 「送別会」とは名ばかりのような粗末な食事でも、こうして三人の兄妹《きょうだい》の顔がそろうのはまたいつのことかと思わせた。
 「いよいよ明日《あす》は次郎ちゃんも出かけるかね。」と、私は古い柱時計を見ながら言った。「かあさんが亡《な》くなってから、ことしでもう十七年にもなるよ。あのおかあさんが生きていて、お前たちの話す言葉を聞いたら驚くだろうなあ。わざと乱暴な言葉を使う。『時計を買いやがった――動いていやがらあ』――お前たちのはその調子だもの。」
 「いけねえ、いけねえ。」と、次郎は頭をかきながら食った。
 「とうさんがそんなことを言ったって、みんながそうだからしかたがない。」と、三郎も笑いながら食った。
 「そう言えば、次郎ちゃんも一年に二度ぐらいずつは東京へ出ておいでよ。なにも田舎《いなか》に引っ込みきりと考えなくてもいいよ。二三年は旅だと思ってごらんな。とうさんなぞも旅をするたびに自分の道が開けて来た。田舎へ行くと、友だちはすくなかろうなあ。ことに画《え》のほうの友だちが――それだけがとうさんの気がかりだ。」
 こう私が言うと、今まで子供の友だちのようにして暮らして来たお徳も長い奉公を思い出し顔に、
 「次郎ちゃんが行ってしまうと、急にさびしくなりましょうねえ。人を送るのもいいが、わたしはあとがいやです。」
 と、給仕《きゅうじ》しながら言った。
 「あゝ、食った。食った。」
 間もなくその声が子供らの間に起こった。三郎は口をふいて、そこにある箪笥《たんす》を背に足を投げ出した。次郎は床柱《とこばしら》のほうへ寄って、自分で装置したラジオの受話器を耳にあてがった。細いアンテナの線を通して伝わって来る都会の声も、その音楽も、当分は耳にすることのできないかのように。
 その晩は、
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