、幅広で鋭くとがったあの笹の葉は忘れ難《がた》い。私はまた、水に乏しいあの山の上で、遠いわが家《や》の先祖ののこした古い井戸の水が太郎の家に活《い》き返っていたことを思い出した。新しい木の香のする風呂桶《ふろおけ》に身を浸した時の楽しさを思い出した。ほんとうに自分の子の家に帰ったような気のしたのも、そういう時であったことを思い出した。
 しかし、こういう旅疲れも自然とぬけて行った。そして、そこから私が身を起こしたころには、過ぐる七年の間続きに続いて来たような寂しい嵐《あらし》の跡を見直そうとする心を起こした。こんな心持ちは、あの太郎の家を見るまでは私に起こらなかったことだ。
 留守宅には種々な用事が私を待っていた。その中でも、さしあたり次郎たちと相談しなければならない事が二つあった。一つは見つかったという借家の事だ。さっそく私は次郎と三郎の二人《ふたり》を連れて青山方面まで見に行って来た。今少しで約束するところまで行った。見合わせた。帰って来て、そんな家を無理して借りるよりも、まだしも今の住居《すまい》のほうがましだということにおもい当たった。いったんは私の心も今の住居《すまい》を捨てたものである。しかし、もう一度この屋根の下に辛抱《しんぼう》してみようと思う心はすでにその時に私のうちにきざして来た。
 今一つは、次郎の事だ。私は太郎から聞いて来た返事を次郎に伝えて、いよいよ郷里のほうへ出発するように、そのしたくに取り掛からせることにした。
 「次郎ちゃん、番町《ばんちょう》の先生のところへも暇乞《いとまご》いに行って来るがいいぜ。」
 「そうだよ。」
 私たちはこんな言葉をかわすようになった。「番町の先生」とは、私より年下の友だちで、日ごろ次郎のような未熟なものでも末たのもしく思って見ていてくれる美術家である。
 「今ある展覧会も、できるだけ見て行くがいいぜ。」
 「そうだよ。」
 と、また次郎が答えた。
 五月にはいって、次郎は半分引っ越しのような騒ぎを始めた。何かごとごと言わせて戸棚《とだな》を片づける音、画架や額縁《がくぶち》を荷造りする音、二階の部屋を歩き回る音なぞが、毎日のように私の頭の上でした。私も階下の四畳半にいてその音を聞きながら、七年の古巣からこの子を送り出すまでは、心も落ちつかなかった。仕事の上手《じょうず》なお徳は次郎のために、郷里のほうへ行ってから着るものなぞを縫った。裁縫の材料、材料で次ぎから次ぎへと追われている末子が学校でのけいこに縫った太郎の袷羽織《あわせばおり》もそこへでき上がった。それを柳行李《やなぎごうり》につめさせてなどと家のものが語り合うのも、なんとなく若者の旅立ちの前らしかった。
 次郎の田舎《いなか》行きは、よく三郎の話にも上《のぼ》った。三郎は研究所から帰って来るたびに、その話を私にして、
 「次郎ちゃんのことは、研究所でもみんな知ってるよ。僕の友だちが聞いて『それだけの決心がついたのは、えらい』――とサ。しかし僕は田舎へ行く気にならないなあ。」
 「お前はお前、次郎ちゃんは次郎ちゃんでいい。広い芸術の世界だもの――みんながみんな、そう同じような道を踏まなくてもいい。」
 と、私は答えた。
 子供の変わって行くにも驚く。三郎も私に向かって、以前のようには感情を隠さなくなった。めまぐるしく動いてやまないような三郎にも、なんとなく落ちついたところが見えて来た。子供の変わるのはおとなの移り気とは違う、子供は常に新しい――そう私に思わせるのもこの三郎だ。
 やがて次郎は番町の先生の家へも暇乞《いとまご》いに寄ったと言って、改まった顔つきで帰って来た。餞別《せんべつ》のしるしに贈られたという二枚の書をも私の前に取り出して見せた。それはみごとな筆で大きく書いてあって、あの四方木屋《よもぎや》の壁にでも掛けてながめ楽しむにふさわしいものだった。
 「とうさん、番町の先生はそう言ったよ。いろいろな人の例を僕に引いてみせてね、田舎《いなか》へ引っ込んでしまうと画《え》がかけなくなるとサ。」
 と、次郎はやや不安らしく言ったあとで、さらに言葉を継いで、
 「それから、こういうものをくれてよこした。田舎《いなか》へ行ったら読んでごらんなさいと言って僕にくれてよこした。何かと思ったら、『扶桑陰逸伝《ふそういんいつでん》』サ。画《え》の本でもくれればいいのに、こんな仙人《せんにん》の本サ。」
 「仙人の本はよかった。」と、私も吹き出した。
 「これはとうさんでも読むにちょうどいい。」
 「とうさんだって、まだ仙人には早いよ。」
 「しかしお餞別《せんべつ》と思えばありがたい。きょうは番町でいろいろな話が出たよ。ヴィルドラックという人の持って来たマチスの画《え》の話も出たよ。きょうの話はみんなよかった。それ
前へ 次へ
全21ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング