――私は私だけのお祝いを申し上げに来たい。」
八十歳あまりになる人の顔にはまだみずみずしい光沢《つや》があった。私はこの隣家のお婆さんの孫にあたる子息《むすこ》や、森さんなぞと一緒に同じ食卓についていて、日ごろはめったにやらない酒をすこしばかりやった。太郎はまたこの新築した二階の部屋《へや》で初めての客をするという顔つきで、冷《さ》めた徳利を集めたり、それを熱燗《あつかん》に取り替えて来たりして、二階と階下《した》の間を往《い》ったり来たりした。
「太郎さんも、そこへおすわり。」と、私は言った。「森さんのおかあさんが丹精《たんせい》してくだすったごちそうもある――下諏訪《しもすわ》の宿屋からとうさんの提《さ》げて来た若鷺《わかさぎ》もある――」
「こういう田舎《いなか》にいますと、酒をやるようになります。」と、森さんが、私に言ってみせた。「どうしても、周囲がそうだもんですから。」
「太郎さんもすこしは飲めるように、なりましたろうか。」と、私は半分|串談《じょうだん》のように。
「えゝ、太郎さんは強い。」それが森さんの返事だった。「いくら飲んでも太郎さんの酔ったところを見た事がない。」
その時、私は森さんから返った盃《さかずき》を太郎の前に置いて、
「今から酒はすこし早過ぎるぜ。しかし、きょうは特別だ。まあ、一杯やれ。」
わが子の労苦をねぎらおうとする心から、思わず私は自分で徳利を持ち添えて勧めた。若者、万歳――口にこそそれを出さなかったが、青春を祝する私の心はその盃にあふれた。私は自分の年とったことも忘れて、いろいろと皆を款待顔《もてなしがお》な太郎の酒をしばらくそこにながめていた。
七日の後には私は青山の親戚《しんせき》や末子と共にこの山を降りた。
落合川の駅からもと来た道を汽車で帰ると、下諏訪《しもすわ》へ行って日が暮れた。私は太郎の作っている桑畑や麦畑を見ることもかなわなかったほど、いそがしい日を郷里のほうで送り続けて来た。察しのすくない郷里の人たちは思うように私を休ませてくれなかった。この帰りには、いったん下諏訪で下車して次の汽車の来るのを待ち、また夜行の旅を続けたが、嫂《あによめ》でも姪《めい》でも言葉すくなに乗って行った。末子なぞは汽車の窓のところにハンケチを載せて、ただうとうとと眠りつづけて行った。
東京の朝も見直すような心持ちで、私は娘と一緒に家に帰りついた。私も激しい疲れの出るのを覚えて、部屋《へや》の畳の上にごろごろしながら寝てばかりいるような自分を留守居するもののそばに見つけた。
「旦那《だんな》さん、あちらはいかがでした。」
と、お徳が熱い茶なぞを持って来てくれると、私は太郎が山から背負《しょ》って来たという木で焚《た》いた炉にもあたり、それで沸かした風呂《ふろ》にもはいって来た話なぞをして、そこへ横になった。
「とうさん、どうだった。」
「思ったより太郎さんの家はいい家だったよ。しっかりとできていたよ。でも、ぜいたくな感じはすこしもなかった。森さんの寄付してくれた古い小屋なぞも裏のほうに造り足してあったよ。」
私は次郎や三郎にもこんな話を聞かせて置いて、またそこに横になった。
二日《ふつか》も三日《みっか》も私は寝てばかりいた。まだ半分あの山の上に身を置くような気もしていた。旅の印象は疲れた頭に残って、容易に私から離れなかった。私の目には明るい静かな部屋がある。新しい障子のそばには火鉢《ひばち》が置いてある。客が来てそこで話し込んでいる。村の校長さんという人も見えていて「太郎さんの百姓姿をまだ御覧になりませんか、なかなかようござんすよ。」と、私に言ってみせたことを思い出した。「おもしろい話もあります。太郎さんがまだ笹刈《ささが》りにも慣れない時分のことです。笹刈りと言えばこの土地でも骨の折れる仕事ですからね。あの笹刈りがあるために、他《よそ》からこの土地へおよめに来手《きて》がないと言われるくらい骨の折れる仕事ですからね。太郎さんもみんなと一緒に、威勢よくその笹刈りに出かけて行ったはよかったが、腰をさがして見ると、鎌《かま》を忘れた。大笑いしましたよ。それでも村の若い者がみんなで寄って、太郎さんに刈ってあげたそうですがね。どうして、この節の太郎さんはもうそんなことはありません。」と、その校長さんの言ったことを思い出した。そう言えば、あの村の二三の家の軒先に刈り乾《ほ》してあった笹《ささ》の葉はまだ私の目にある。あれを刈りに行くものは、腰に火縄《ひなわ》を提《さ》げ、それを蚊遣《かや》りの代わりとし、襲い来る無数の藪蚊《やぶか》と戦いながら、高い崖《がけ》の上に生《は》えているのを下から刈り取って来るという。あれは熊笹《くまざさ》というやつか。見たばかりでも恐ろしげに
前へ
次へ
全21ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング