遠い高原がある、とその窓から指《さ》して言うことができた。
 「おかげで、いい家ができました。太郎さんにくれるのは惜しいような気がして来ました。これまでに世話してくださるのも、なかなか容易じゃありません。私もまた、時々本でも読みに帰ります。」
 と、私は森さんに話したが、礼の心は言葉にも尽くせなかった。
 翌日になっても、私は太郎と二人《ふたり》ぎりでゆっくり話すような機会を見いださなかった。嫂《あによめ》の墓参に。そのお供に。入れかわり立ちかわり訪《たず》ねて来る村の人たちの応接に。午後に、また私は人を避けて、炉ばたつづきの六畳ばかりの部屋《へや》に太郎を見つけた。
 「とうさん、みやげはこれっきり?」
 「なんだい、これっきりとは。」
 私は約束の柱時計を太郎のところへ提《さ》げて来られなかった。それを太郎が催促したのだ。
 「次郎ちゃんが来る時に、時計は持たしてよこす。」と言ったあとで、ようやく私は次郎のことをそこへ持ち出した。「どうだろう、次郎ちゃんは来たいと言ってるが、お前の迷惑になるようなことはなかろうか。」
 「そんなことはない。あのとおり二階はあいているし、次郎ちゃんの部屋はあるし、僕はもうそのつもりにして待っているところだ。」
 「半日お前の手伝いをさせる、半日|画《え》をかかせる――そんなふうにしてやらしてみるか。何も試みだ。」
 「まあ、最初の一年ぐらいは、僕から言えばかえって邪魔になるくらいなものだろうけれど――そのうちには次郎ちゃんも慣れるだろう。なかなか百姓もむずかしいからね。」
 そういう太郎の手は、指の骨のふしぶしが強くあらわれていて、どんな荒仕事にも耐えられそうに見えた。その手はもはやいっぱしの若い百姓の手だった。この子の机のそばには、本箱なぞも置いてあって、農民と農村に関する書籍の入れてあるのも私の目についた。
 その日は私は新しい木の香のする風呂桶《ふろおけ》に身を浸して、わずかに旅の疲れを忘れた。私は山家《やまが》らしい炉ばたで婆《ばあ》さんたちの話も聞いてみたかった。で、その晩はあかあかとした焚火《たきび》のほてりが自分の顔へ来るところへ行って、くつろいだ。
 「ほんとに、おらのようなものの造るものでも、太郎さんはうまいうまいと言って食べさっせる。そう思うと、おらはオヤゲナイような気がする。」
 と、私に言ってみせるのは、肥《ふと》って丈夫そうなお霜婆さんだ。私の郷里では、このお霜婆さんの話すように、女でも「おら」だ。
 「どうだなし、こんないい家ができたら、お前さまもうれしからず。」
 と、今度はお菊婆さんが言い出した。無口なお霜婆さんに比べると、この人はよく話した。
 「今度帰って見て、私も安心しました。」と、私は言った。「私はあの太郎さんを旦那衆《だんなしゅう》にするつもりはありません。要《い》るだけの道具はあてがう、あとは自分で働け――そのつもりです。」
 「えゝ、太郎さんもその気だで。」と、お菊婆さんは炉の火のほうに気をくばりながら言った。「この焚木《たきぎ》でもなんでも、みんな自分で山から背負《しょ》っておいでるぞなし。そりゃ、お前さま、ここの家を建てるだけでも、どのくらいよく働いたかしれずか。」
 炉ばたでの話は尽きなかった。
 三日《みっか》目には私は嫂《あによめ》のために旧《ふる》いなじみの人を四方木屋《よもぎや》の二階に集めて、森さんのお母《かあ》さんやお菊婆さんの手料理で、みんなと一緒に久しぶりの酒でもくみかわしたいと思った。三年前に兄を見送ってからの嫂《あによめ》は、にわかに老《ふ》けて見える人であった。おそらくこれが嫂に取っての郷里の見納めであろうとも思われたからで。
 私たちは炉ばたにいて順にそこへ集まって来る客を待った。嫂が旧《ふる》いなじみの人々で、三十年の昔を語り合おうとするような男の老人はもはやこの村にはいなかった。そういう老人という老人はほとんど死に絶えた。招かれて来るお客はお婆さんばかりで、腰を曲《かが》めながらはいって来る人のあとには、すこし耳も遠くなったという人の顔も見えた。隣村からわざわざ嫂や姪《めい》や私の娘を見にやって来てくれた人もあったが、私と同年ですでに幾人かの孫のあるという未亡人《みぼうじん》が、その日の客の中での年少者であった。
 しかし、一同が二階に集まって見ると、このお婆さんたちの元気のいい話し声がまた私をびっくりさせた。その中でも、一番の高齢者で、いちばん元気よく見えるのは隣家のお婆さんであった。この人は酒の盃《さかずき》を前に置いて、
 「どうか、まあ太郎さんにもよいおよめさんを見つけてあげたいもんだ。とうさんの御心配で、こうして家もできたし。この次ぎは、およめさんだ。そのおりには私もまたきょうのように呼んでいただきたい
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