れを嫂《あによめ》にも着せ、姪にも着せ、末子にも着せて。
 中央線の落合川《おちあいがわ》駅まで出迎えた太郎は、村の人たちと一緒に、この私たちを待っていた。木曾路《きそじ》に残った冬も三留野《みどの》あたりまでで、それから西はすでに花のさかりであった。水力電気の工事でせき留められた木曾川の水が大きな渓《たに》の間に見えるようなところで、私はカルサン姿の太郎と一緒になることができた。そこまで行くと次郎たちの留守居する東京のほうの空も遠かった。
 「ようやく来た。」
 と、私はそれを太郎にも末子にも言ってみせた。
 年とった嫂《あによめ》だけは山駕籠《やまかご》、その他のものは皆徒歩で、それから一里ばかりある静かな山路《やまみち》を登った。路傍に咲く山つつじでも、菫《すみれ》でも、都会育ちの末子を楽しませた。登れば登るほど青く澄んだ山の空気が私たちの身に感じられて来た。旧《ふる》い街道の跡が一筋目につくところまで進んで行くと、そこはもう私の郷里の入り口だ。途中で私は森《もり》さんという人の出迎えに来てくれるのにあった。森さんは太郎より七八歳ほども年長な友だちで、太郎が四年の農事見習いから新築の家の工事まで、ほとんどいっさいの世話をしてくれたのもこの人だ。
 郷里に帰るものの習いで、私は村の人たちや子供たちの物見高い目を避けたかった。今だに古い駅路《うまやじ》のなごりを見せているような坂の上のほうからは、片側に続く家々の前に添うて、細い水の流れが走って来ている。勝手を知った私はある抜け道を取って、ちょうどその村の裏側へ出た。太郎は私のすぐあとから、すこしおくれて姪や末子もついて来た。私は太郎の耕しに行く畠《はたけ》がどっちの方角に当たるかを尋ねることすら楽しみに思いながら歩いた。私の行く先にあるものは幼い日の記憶をよび起こすようなものばかりだ。暗い竹藪《たけやぶ》のかげの細道について、左手に小高い石垣《いしがき》の下へ出ると、新しい二階建ての家のがっしりとした側面が私の目に映った。新しい壁も光って見えた。思わず私は太郎を顧みて、
 「太郎さん、お前の家かい。」
 「これが僕の家サ。」
 やがて私はその石垣《いしがき》を曲がって、太郎自身の筆で屋号を書いた農家風の入り口の押し戸の前に行って立った。
   四方木屋《よもぎや》。

 太郎には私は自身に作れるだけの田と、畑と、薪材《まきざい》を取りに行くために要《い》るだけの林と、それに家とをあてがった。自作農として出発させたい考えで、余分なものはいっさいあてがわない方針を執った。
 都会の借家ずまいに慣れた目で、この太郎の家を見ると、新規に造った炉ばたからしてめずらしく、表から裏口へ通り抜けられる農家風の土間もめずらしかった。奥もかなり広くて、青山の親戚《しんせき》を泊めるには充分であったが、おとなから子供まで入れて五人もの客が一時にそこへ着いた時は、いかにもまだ新世帯《しんじょたい》らしい思いをさせた。
 「きのうまで左官屋《さかんや》さんがはいっていた。庭なぞはまだちっとも手がつけてない。」
 と、太郎は私に言ってみせた。
 何もかも新規だ。まだ柱時計一つかかっていない炉ばたには、太郎の家で雇っているお霜《しも》婆《ばあ》さんのほかに、近くに住むお菊《きく》婆さんも手伝いに来てくれ、森さんの母《かあ》さんまで来てわが子の世話でもするように働いていてくれた。
 私は太郎と二人《ふたり》で部屋部屋《へやべや》を見て回るような時を見つけようとした。それが容易に見当たらなかった。
 「この家は気に入った。思ったよりいい家だ。よっぽど森さんにはお礼を言ってもいいね。」
 わずかにこんな話をしたかと思うと、また太郎はいそがしそうに私のそばから離れて行った。そこいらには、まだかわき切らない壁へよせて、私たちの荷物が取り散らしてある。末子は姪《めい》の子供を連れながら部屋部屋をあちこちとめずらしそうに歩き回っている。嫂《あによめ》も三十年ぶりでの帰省とあって、旧《ふる》なじみの人たちが出たりはいったりするだけでも、かなりごたごたした。
 人を避けて、私は眺望《ちょうぼう》のいい二階へ上がって見た。石を載せた板屋根、ところどころに咲きみだれた花の梢《こずえ》、その向こうには春深く霞《かす》んだ美濃《みの》の平野が遠く見渡される。天気のいい日には近江《おうみ》の伊吹山《いぶきやま》までかすかに見えるということを私は幼年のころに自分の父からよく聞かされたものだが、かつてその父の旧《ふる》い家から望んだ山々を今は自分の新しい家から望んだ。
 私はその二階へ上がって来た森さんとも一緒に、しばらく窓のそばに立って、久しぶりで自分を迎えてくれるような恵那《えな》山にもながめ入った。あそこに深い谷がある、あそこに
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