お徳もなごりを惜しむというふうで、台所を片づけてから子供らの相手になった。お徳はにぎやかなことの好きな女で、戯れに子供らから腕押しでも所望されると、いやだとは言わなかった。肥《ふと》って丈夫そうなお徳と、やせぎすで力のある次郎とは、おもしろい取り組みを見せた。さかんな笑い声が茶の間で起こるのを聞くと、私も自分の部屋《へや》にじっとしていられなかった。
「次郎ちゃんと姉《ねい》やとは互角《ごかく》だ。」
そんなことを言って見ている三郎たちのそばで、また二人《ふたり》は勝負を争った。健康そのものとも言いたいお徳が肥《ふと》った膝《ひざ》を乗り出して、腕に力を入れた時は、次郎もそれをどうすることもできなかった。若々しい血潮は見る見る次郎の顔に上《のぼ》った。堅く組んだ手も震えた。私はまたハラハラしながらそれを見ていた。
「オヽ、痛い。御覧なさいな、私の手はこんなに紅《あか》くなっちゃったこと。」
と、お徳は血でもにじむかと見えるほど紅く熱した腕をさすった。
「三ちゃんも姉《ねい》やとやってごらんなさいな。」
と、末子がそばから勧めたが、三郎は応じなかった。
「僕はよす。左ならやってみてもいいけれど。」
そういう三郎は左を得意としていた。腕押しに、骨牌《かるた》に、その晩は笑い声が尽きなかった。
翌日はもはや新しい柱時計が私たちの家の茶の間にかかっていなかった。次郎はそれを厚い紙箱に入れて、旅に提《さ》げて行かれるように荷造りした。
その時になってみると、太郎はあの山地のほうですでに田植えを始めている。次郎はこれから出かけようとしている。お徳もやがては国をさして帰ろうとしている。次郎のいないあとは、にわかに家も寂しかろうけれど、日ごろせせこましく窮屈にのみ暮らして来た私たちの前途には、いくらかのゆとりのある日も来そうになった。私は私で、もう一度自分の書斎を二階の四畳半に移し、この次ぎは客としての次郎をわが家《や》に迎えようと思うなら、それもできない相談ではないように見えて来た。どうせ今の住居《すまい》はあの愛宕下《あたごした》の宿屋からの延長である。残る二人の子供に不自由さえなくば、そう想《おも》ってみた。五十円や六十円の家賃で、そう思わしい借家のないこともわかった。次郎の出発を機会に、ようやく私も今の住居《すまい》に居座《いすわ》りと観念するようになった。
私はひとりで、例の地下室のような四畳半の窓へ近く行った。そこいらはもうすっかり青葉の世界だった。私は両方の拳《こぶし》を堅く握りしめ、それをうんと高く延ばし、大きなあくびを一つした。
「大都市は墓地です。人間はそこには生活していないのです。」
これは日ごろ私の胸を往《い》ったり来たりする、あるすぐれた芸術家の言葉だ。あの子供らのよく遊びに行った島津山《しまづやま》の上から、芝麻布《しばあざぶ》方面に連なり続く人家の屋根を望んだ時のかつての自分の心持ちをも思い合わせ、私はそういう自分自身の立つ位置さえもが――あの芸術家の言い草ではないが、いつのまにか墓地のような気のして来たことを胸に浮かべてみた。過ぐる七年のさびしい嵐《あらし》は、それほど私の生活を行き詰まったものとした。
私が見直そうと思って来たのも、その墓地だ。そして、その墓地から起き上がる時が、どうやら、自分のようなものにもやって来たかのように思われた。その時になって見ると、「父は父、子は子」でなく、「自分は自分、子供は子供ら」でもなく、ほんとうに「私たち」への道が見えはじめた。
夕日が二階の部屋《へや》に満ちて来た。階下にある四畳半や茶の間はもう薄暗い。次郎の出発にはまだ間があったが、まとめた荷物は二階から玄関のところへ運んであった。
「さあ、これだ、これが僕の持って行く一番のおみやげだ。」
と、次郎は言って、すっかり荷ごしらえのできた時計をあちこちと持ち回った。
「どれ、わたしにも持たせてみて。」
と、末子は兄のそばへ寄って言った。
遠い山地も、にわかに私たちには近くなった。この新しい柱時計が四方木屋《よもぎや》の炉ばたにかかって音のする日を想《おも》いみるだけでも、楽しかった。日ごろ私が矛盾のように自分の行為を考えたことも、今はその矛盾が矛盾でないような時も来た。子のために建てたあの永住の家と、旅にも等しい自分の仮の借家ずまいの間には、虹《にじ》のような橋がかかったように思われて来た。
「次郎ちゃん、停車場まで送りましょう。末子さんもわたしと一緒にいらっしゃいね。」
と、お徳が言い出した。
「僕も送って行くよ。」
と、三郎も言った。すると、次郎は首を振って、
「だれも来ちゃいけない。今度はだれにも送ってもらわない。」
それが次郎の望みらしかった。私は末子やお徳を思いと
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