。
「子供でも大きくなったら。」
長いこと待ちに待ったその日が、ようやく私のところへやって来るようになった。しかしその日が来るころには、私はもう動けないような人になってしまうかと思うほど、そんなに長くすわり続けた自分を子供らのそばに見いだした。
「強い嵐《あらし》が来たものだ。」
と、私は考えた。
「とうさん――家はありそうで、なかなかないよ。僕と三ちゃんとで毎日のように歩いて見た。二人《ふたり》ですっかりさがして見た。この麻布《あざぶ》から青山へんへかけて、もう僕らの歩かないところはない……」
と、次郎が言うころは、私たちの借家さがしもひと休みの時だった。なるべく末子の学校へ遠くないところに、そんな注文があった上に、よさそうな貸し家も容易に見当たらなかったのである。あれからまた一軒あるにはあって、借り手のつかないうちにと大急ぎで見に行って来た家は、すでに約束ができていた。今の住居《すまい》の南隣に三年ばかりも住んだ家族が、私たちよりも先に郊外のほうへ引っ越して行ってしまってからは、いっそう周囲もひっそりとして、私たちの庭へ来る春もおそかった。
めずらしく心持ちのよい日が私には続くようになった。私は庭に向いた部屋《へや》の障子をあけて、とかく気になる自分の爪《つめ》を切っていた。そこへ次郎が来て、
「とうさんはどこへも出かけないんだねえ。」
と、さも心配するように、それを顔にあらわして言った。
「どうしてとうさんの爪はこう延びるんだろう。こないだ切ったばかりなのに、もうこんなに延びちゃった。」
と、私は次郎に言ってみせた。貝爪《かいづめ》というやつで、切っても、切っても、延びてしかたがない。こんなことはずっと以前には私も気づかなかったことだ。
「とうさんも弱くなったなあ。」
と言わぬばかりに、次郎はややしばらくそこにしゃがんで、私のすることを見ていた。ちょうど三郎も作画に疲れたような顔をして、油絵の筆でも洗いに二階の梯子段《はしごだん》を降りて来た。
「御覧、お前たちがみんなでかじるもんだから、とうさんの脛《すね》はこんなに細くなっちゃった。」
私は二人の子供の前へ自分の足を投げ出して見せた。病気以来肉も落ち痩《や》せ、ずっと以前には信州の山の上から上州《じょうしゅう》下仁田《しもにた》まで日に二十里の道を歩いたこともある脛《すね》とは自分ながら思われなかった。
「脛《すね》かじりと来たよ。」
次郎は弟のほうを見て笑った。
「太郎さんを入れると、四人もいてかじるんだから、たまらないや。」
と、三郎も半分他人の事のように言って笑った。そこへ茶の間の唐紙《からかみ》のあいたところから、ちょいと笑顔《えがお》を見せたのは末子だ。脛かじりは、ここにも一人《ひとり》いると言うかのように。
その時まで、三郎は何かもじもじして、言いたいことも言わずにいるというふうであったが、
「とうさん――ホワイトを一本と、テラ・ロオザを一本買ってくれない? 絵の具が足りなくなった。」
こう切り出した。
「こないだ買ったばかりじゃないか。」
「だって、足りないものは足りないんだもの。絵の具がなけりゃ、何も描《か》けやしない。」
と、三郎は不平顔である。すると、次郎はさっそく弟の言葉をつかまえて、
「あ――またかじるよ。」
この次郎の串談《じょうだん》が、みんなを吹き出させた。
私は子供らに出して見せた足をしまって、何げなく自分の手のひらをながめた。いつでも自分の手のひらを見ていると、自分の顔を見るような気のするのが私の癖だ。いまいましいことばかりが胸に浮かんで来た。私はこの四畳半の天井からたくさんな蛆《うじ》の落ちたことを思い出した。それが私の机のそばへも落ち、畳の上へも落ち、掃いても掃いても落ちて来る音のしたことを思い出した。何が腐り爛《ただ》れたかと薄気味悪くなって、二階の部屋《へや》から床板《ゆかいた》を引きへがして見ると、鼠《ねずみ》の死骸《しがい》が二つまでそこから出て来て、その一つは小さな動物の骸骨でも見るように白く曝《さ》れていたことを思い出した。私は恐ろしくなった。何かこう自分のことを形にあらわして見せつけるようなものが、しかもそれまで知らずにいた自分のすぐ頭の上にあったことを思い出した。
その時になって見ると、過ぐる七年を私は嵐《あらし》の中にすわりつづけて来たような気もする。私のからだにあるもので、何一つその痕跡《こんせき》をとどめないものはない。髪はめっきり白くなり、すわり胼胝《だこ》は豆のように堅く、腰は腐ってしまいそうに重かった。朝寝の枕《まくら》もとに煙草盆《たばこぼん》を引きよせて、寝そべりながら一服やるような癖もついた。私の姉がそれをやった時分に、私はまだ若くて、年
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