すまい》の裏側にあたる二階の窓のところへは、巣をかけに来る蜂《はち》があって、それが一昨年《おととし》も来、去年も来、何か私の家にはよい事でもある前兆のように隣近所の人たちから騒がれたこともある。末子はその窓の見える抜け道を通っては毎日学校のほうから帰って来た。そして、好きな裁縫や編み物のような、静かな手芸に飽きることを知らないような娘であった。そろそろ女の洋服がはやって来て、女学校通いの娘たちが靴《くつ》だ帽子だと新規な風俗をめずらしがるころには、末子も紺地の上着《うわぎ》に襟《えり》のところだけ紫の刺繍《ぬい》のしてある質素な服をつくった。その短い上着のまま、早い桃の実の色した素足《すあし》を脛《すね》のあたりまであらわしながら、茶の間を歩き回るなぞも、今までの私の家には見られなかった図だ。
 この娘がぱったり洋服を着なくなった。私も多少本場を見て来たその自分の経験から、「洋服のことならとうさんに相談するがいいぜ」なぞと末子に話したり、帯で形をつけることは東西の風俗ともに変わりがないと言い聞かせたりして、初めて着せて見る娘の洋服には母親のような注意を払った。十番で用の足りないものは、銀座《ぎんざ》まで買いにお徳を娘につけてやった。それほどにして造りあげた帽子も、服も、付属品いっさいも、わずか二月《ふたつき》ほどの役にしか立たないとを知った時に私も驚いた。
 「串談《じょうだん》じゃないぜ。あの上着は十八円もかかってるよ。そんなら初めから洋服なぞを造らなければいいんだ。」
 日ごろ父|一人《ひとり》をたよりにしている娘も、その時ばかりは私の言うことを聞き入れようとしなかった。お徳がそこへ来て、
 「どうしても末子さんは着たくないんだそうですよ。洋服はもういらないから、ほしい人があったらだれかにあげてくだすってもいいなんて……」
 こういう場合に、末子の代弁をつとめるのは、いつでもこの下女だった。それにしても、どうかして私はせっかく新調したものを役に立てさせたいと思って、
 「洋服を着るんなら、とうさんがまた築地《つきじ》小劇場をおごる。」
 と言ってみせた。すると、お徳がまた娘の代わりに立って来て、
 「築地へは行きたいし、どうしても洋服は着たくないし……」
 それが娘の心持ちだった。その時、お徳はこんなこともつけたして言った。
 「よくよく末子さんも、あの洋服がいやになったと見えますよ。もしかしたら、屑屋《くずや》に売ってくれてもいいなんて……」これほどの移りやすさが年若《としわか》な娘の内に潜んでいようとは、私も思いがけなかった。でも、私も子に甘い証拠には、何かの理由さえあれば、それで娘のわがままを許したいと思ったのである。お徳に言わせると、末子の同級生で新調の校服を着て学校通いをするような娘は今は一人もないとのことだった。
 「そんなに、みんな迷っているのかなあ。」
 「なんでも『赤襟《あかえり》のねえさん』なんて、次郎ちゃんたちがからかったものですから、あれから末子さんも着なくなったようですよ。」
 「まあ、あの洋服はしまって置くサ。また役に立つ日も来るだろう。」
 とうとう私には娘のわがままを許せるほどのはっきりした理由も見当たらずじまいであった。私は末子の「洋服」を三郎の「早川賢」や「木下繁」にまで持って行って、娘は娘なりの新しいものに迷い苦しんでいるのかと想《おも》ってみた。時には私は用達《ようたし》のついでに、坂の上の電車|路《みち》を六本木《ろっぽんぎ》まで歩いてみた。婦人の断髪はやや下火でも、洋装はまだこれからというころで、思い思いに流行の風俗を競おうとするような女学校通いの娘たちが右からも左からもあの電車の交差点《こうさてん》に群がり集まっていた。
 私たち親子のものが今の住居《すまい》を見捨てようとしたころには、こんな新しいものも遠い「きのう」のことのようになっていた。三郎なぞは、「木下繁」ですらもはや問題でないという顔つきで、フランス最近の画界を代表する人たち――ことに、ピカソオなぞを口にするような若者になっていた。
 「とうさん、今度来たビッシェールの画《え》はずいぶん変わっているよ。あの人は、どんどん変わって行く――確かに、頭がいいんだろうね。」
 この子の「頭がいいんだろうね」には私も吹き出してしまった。
 私の話相手――三人の子供はそれぞれに動き変わりつつあった。三人の中でも兄《にい》さん顔の次郎なぞは、五分刈《ごぶが》りであった髪を長めに延ばして、紺飛白《こんがすり》の筒袖《つつそで》を袂《たもと》に改めた――それもすこしきまりの悪そうに。顔だけはまだ子供のようなあの末子までが、いつのまにか本裁《ほんだち》の着物を着て、女らしい長い裾《すそ》をはしょりながら、茶の間を歩き回るほどに成人した
前へ 次へ
全21ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング