ちゃんにも月給。」
と、私は言って、茶の間の廊下の外で古い風琴《オルガン》を静かに鳴らしている娘のところへも分けに行った。その時、銀貨二つを風琴《オルガン》の上に載せた戻《もど》りがけに、私は次郎や三郎のほうを見て、半分|串談《じょうだん》の調子で、
「天麩羅《てんぷら》の立食《たちぐい》なんか、ごめんだぜ。」
「とうさん、そんな立食なんかするものか。そこは心得ているから安心しておいでよ。」と次郎は言った。
楽しい桃の節句の季節は来る、月給にはありつく、やがて新しい住居《すまい》での新しい生活も始められる、その一日は子供らの心を浮き立たせた。末子も大きくなって、もう雛《ひな》いじりでもあるまいというところから、茶の間の床には古い小さな雛と五人|囃子《ばやし》なぞをしるしばかりに飾ってあった。それも子供らの母親がまだ達者《たっしゃ》な時代からの形見《かたみ》として残ったものばかりだった。私が自分の部屋に戻《もど》って障子の切り張りを済ますころには、茶の間のほうで子供らのさかんな笑い声が起こった。お徳のにぎやかな笑い声もその中にまじって聞こえた。
見ると、次郎は雛壇《ひなだん》の前あたりで、大騒ぎを始めた。暮れの築地《つきじ》小劇場で「子供の日」のあったおりに、たしか「そら豆の煮えるまで」に出て来る役者から見て来たらしい身ぶり、手まねが始まった。次郎はしきりに調子に乗って、手を左右に振りながら茶の間を踊って歩いた。
「オイ、とうさんが見てるよ。」
と言って、三郎はそこへ笑いころげた。
私たちの心はすでに半分今の住居《すまい》を去っていた。
私は茶の間に集まる子供らから離れて、ひとりで自分の部屋《へや》を歩いてみた。わずかばかりの庭を前にした南向きの障子からは、家じゅうでいちばん静かな光線がさして来ている。東は窓だ。二枚のガラス戸越しに、隣の大屋《おおや》さんの高い塀《へい》と樫《かし》の樹《き》とがこちらを見おろすように立っている。その窓の下には、地下室にでもいるような静かさがある。
ちょうど三年ばかり前に、五十日あまりも私の寝床が敷きづめに敷いてあったのも、この四畳半の窓の下だ。思いがけない病が五十の坂を越したころの身に起こって来た。私はどっと床についた。その時の私は再び起《た》つこともできまいかと人に心配されたほどで、茶の間に集まる子供らまで一時沈まり返ってしまった。
どうかすると、子供らのすることは、病んでいる私をいらいらさせた。
「とうさんをおこらせることが、とうさんのからだにはいちばん悪いんだぜ。それくらいのことがお前たちにわからないのか。」
それを私が寝ながら言ってみせると、次郎や三郎は頭をかいて、すごすごと障子のかげのほうへ隠れて行ったこともある。
それからの私はこの部屋に臥《ね》たり起きたりして暮らした。めずらしく気分のよい日が来たあとには、また疲れやすく、眩暈心地《めまいごこち》のするような日が続いた。毎朝の気分がその日その日の健康を予報する晴雨計だった。私の健康も確実に回復するほうに向かって行ったが、いかに言ってもそれが遅緩で、もどかしい思いをさせた。どれほどの用心深さで私はおりおりの暗礁《あんしょう》を乗り越えようと努めて来たかしれない。この病弱な私が、ともかくも住居《すまい》を移そうと思い立つまでにこぎつけた。私は何かこう目に見えないものが群がり起こって来るような心持ちで、本棚《ほんだな》がわりに自分の蔵書のしまってある四畳半の押入れをもあけて見た。いよいよこの家を去ろうと心をきめてからは、押入れの中なぞも、まるで物置きのようになっていた。世界を家とする巡礼者のような心であちこちと提《さ》げ回った古い鞄《かばん》――その外国の旅の形見が、まだそこに残っていた。
「子供でも大きくなったら。」
私はそればかりを願って来たようなものだ。あの愛宕下《あたごした》の宿屋のほうで、太郎と次郎の二人《ふたり》だけをそばに置いたころは、まだそれでも自由がきいた。腰巾着《こしぎんちゃく》づきでもなんでも自分の行きたいところへ出かけられた。末子を引き取り、三郎を引き取りするうちに、目には見えなくても降り積もる雪のような重いものが、次第に深くこの私を埋《うず》めた。
しかし私はひとりで子供を養ってみているうちに、だんだん小さなものの方へ心をひかれるようになって行った。年若い時分には私も子供なぞはどうでもいいと考えた。かえって手足まといだぐらいに考えたこともあった。知る人もすくない遠い異郷の旅なぞをしてみ、帰国後は子供のそばに暮らしてみ、次第に子供の世界に親しむようになってみると、以前に足手まといのように思ったその自分の考え方を改めるようになった。世はさびしく、時は難い。明日《あす》は、明日は
前へ
次へ
全21ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング