の前に立って、ややもすれば妹をめがけて打ちかかろうとする次郎をさえぎった。私は身をもって末子をかばうようにした。
 「とうさんが見ていないとすぐこれだ。」と、また私は次郎に言った。「どうしてそうわからないんだろうなあ。末ちゃんはお前たちとは違うじゃないか。他《よそ》からとうさんの家へ帰って来た人じゃないか。」
 「末ちゃんのおかげで、僕がとうさんにしかられる。」
 その時、次郎は子供らしい大声を揚げて泣き出してしまった。
 私は家の内を見回した。ちょうど町では米騒動以来の不思議な沈黙がしばらくあたりを支配したあとであった。市内電車従業員の罷業《ひぎょう》のうわさも伝わって来るころだ。植木坂の上を通る電車もまれだった。たまに通る電車は町の空に悲壮な音を立てて、窪《くぼ》い谷の下にあるような私の家の四畳半の窓まで物すごく響けて来ていた。
 「家の内も、外も、嵐《あらし》だ。」
 と、私は自分に言った。
 私が二階の部屋《へや》を太郎や次郎にあてがい、自分は階下へ降りて来て、玄関|側《わき》の四畳半にすわるようになったのも、その時からであった。そのうちに、私は三郎をも今の住居《すまい》のほうに迎えるようになった。私はひとりで手をもみながら、三郎をも迎えた。
 「三人育てるも、四人育てるも、世話する身には同じことだ。」
 と、末子を迎えた時と同じようなことを言った。それからの私は、茶の間にいる末子のよく見えるようなところで、二階の梯子段《はしごだん》をのぼったり降りたりする太郎や次郎や三郎の足音もよく聞こえるようなところで、ずっとすわり続けてしまった。

 こんな世話も子供だからできた。私は足掛け五年近くも奉公していた婆やにも、それから今のお徳にも、串談《じょうだん》半分によくそう言って聞かせた。もしこれが年寄りの世話であったら、いつまでも一つ事を気に掛けるような年老いた人たちをどうしてこんなに養えるものではないと。
 私たちがしきりにさがした借家も容易に見当たらなかった。好ましい住居《すまい》もすくないものだった。三月の節句も近づいたころに、また私は次郎を連れて一軒別の借家を見に行って来た。そこは次郎と三郎とでくわしい見取り図まで取って来た家で、二人《ふたり》ともひどく気に入ったと言っていた。青山《あおやま》五丁目まで電車で、それから数町ばかり歩いて行ったところを左へ折れ曲がったような位置にあった。部屋の数が九つもあって、七十五円なら貸す。それでも家賃が高過ぎると思うなら、今少しは引いてもいいと言われるほど長く空屋《あきや》になっていた古い家で、造作もよく、古風な中二階などことにおもしろくできていたが、部屋が多過ぎていまだに借り手がないとのこと。よっぽど私も心が動いて帰って来たが、一晩寝て考えた上に、自分の住居《すまい》には過ぎたものとあきらめた。
 適当な借家の見当たり次第に移って行こうとしていた私の家では、障子も破れたまま、かまわずに置いてあった。それが気になるほど目について来た。せめて私は毎日ながめ暮らす身のまわりだけでも繕いたいと思って、障子の切り張りなどをしていると、そこへ次郎が来て立った。
 「とうさん、障子なんか張るのかい。」
 次郎はしばらくそこに立って、私のすることを見ていた。
 「引っ越して行く家の障子なんか、どうでもいいのに。」
 「だって、七年も雨露《あめつゆ》をしのいで来た屋根の下じゃないか。」
 と私は言ってみせた。
 煤《すす》けた障子の膏薬《こうやく》張りを続けながら、私はさらに言葉をつづけて、
 「ホラ、この前に見て来た家サ。あそこはまるで主人公本位にできた家だね。主人公さえよければ、ほかのものなぞはどうでもいいという家だ。ただ、主人公の部屋《へや》だけが立派だ。ああいう家を借りて住む人もあるかなあ。そこへ行くと、二度目に見て来た借家のほうがどのくらいいいかしれないよ。いかに言っても、とうさんの家には大き過ぎるね。」
 「僕も最初見つけた時に、大き過ぎるとは思ったが――」
 この次郎は私の話を聞いているのかと思ったら、何かもじもじしていたあとで、私の前に手をひろげて見せた。
 「とうさん、月給は?」
 この「月給」が私を笑わせた。毎月、私は三人の子供に「月給」を払うことにしていた。月の初めと半ばとの二度に分けて、半月に一円ずつの小|遣《づかい》を渡すのを私の家ではそう呼んでいた。
 「今月はまだ出さなかったかねえ。」
 「とうさん、きょうは二日《ふつか》だよ。三月の二日だよ。」
 それを聞いて、私は黒いメリンスを巻きつけた兵児帯《へこおび》の間から蝦蟇口《がまぐち》を取り出した。その中にあった金を次郎に分け、ちょうどそこへ屋外《そと》からテニスの運動具をさげて帰って来た三郎にも分けた。
 「へえ、末
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