いで――」
 と言って、二度も三度も焼け残った麻幹《おがら》の上を飛んだ。
 「ああいうところは、どうしても次郎ちゃんだ。」
 と、宿屋の亭主《ていしゅ》は快活に笑った。
 ややもすれば兄をしのごうとするこの弟の子供を制《おさ》えて、何を言われても黙って順《したが》っているような太郎の性質を延ばして行くということに、絶えず私は心を労しつづけた。その心づかいは、子供から目を離させなかった。町の空で、子供の泣き声やけんかする声でも聞きつけると、私はすぐに座をたった。離れ座敷の廊下に出てみた。それが自分の子供の声でないことを知るまでは安心しなかった。
 私のところへは来客も多かった。ある酒好きな友だちが、この私を見に来たあとで、「久しぶりでどこかへ誘おうと思ったが、ああして子供をひかえているところを見ると、どうしてもそれが言い出せなかった、」と、人に語ったという。その話を私は他の友だちの口から聞いた。でも、私も、引っ込んでばかりはいられなかった。世間に出て友だち仲間に交わりたいような夕方でも来ると、私は太郎と次郎の二人を引き連れて、いつでも腰巾着《こしぎんちゃく》づきで出かけた。
 そのうちに、私は末子をもその宿屋に迎えるようになった。私は額《ひたい》に汗する思いで、末子を迎えた。
 「二人育てるも、三人育てるも、世話する身には同じことだ。」
 と、私も考え直した。長いこと親戚《しんせき》のほうに預けてあった娘が学齢に達するほど成人して、また親のふところに帰って来たということは、私に取っての新しいよろこびでもあった。そのころの末子はまだ人に髪を結ってもらって、お手玉や千代紙に余念もないほどの小娘であった。宿屋の庭のままごとに、松葉を魚《さかな》の形につなぐことなぞは、ことにその幼い心を楽しませた。兄たちの学校も近かったから、海老茶色《えびちゃいろ》の小娘らしい袴《はかま》に学校用の鞄《かばん》で、末子をもその宿屋から通わせた。にわかに夕立でも来そうな空の日には、私は娘の雨傘《あまがさ》を小わきにかかえて、それを学校まで届けに行くことを忘れなかった。
 私たち親子のものは、足掛け二年ばかりの宿屋ずまいのあとで、そこを引き揚げることにした。愛宕下《あたごした》から今の住居《すまい》のあるところまでは、歩いてもそう遠くない。電車の線路に添うて長い榎坂《えのきざか》を越せば、やがて植木坂の上に出られる。私たちは宿屋の離れ座敷にあった古い本箱や机や箪笥《たんす》なぞを荷車に載せ、相前後して今の住居《すまい》に引き移って来たのである。

 今の住所へは私も多くの望みをかけて移って来た。婆《ばあ》やを一人《ひとり》雇い入れることにしたのもその時だ。太郎はすでに中学の制服を着る年ごろであったから、すこし遠くても電車で私の母校のほうへ通わせ、次郎と末子の二人《ふたり》を愛宕下の学校まで毎日歩いて通わせた。そのころの私は二階の部屋《へや》に陣取って、階下を子供らと婆やにあてがった。
 しばらくするうちに、私は二階の障子のそばで自分の机の前にすわりながらでも、階下に起こるいろいろな物音や、話し声や、客のおとずれや、子供らの笑う声までを手に取るように知るようになった。それもそのはずだ。餌《えさ》を拾う雄鶏《おんどり》の役目と、羽翅《はね》をひろげて雛《ひな》を隠す母鶏《ははどり》の役目とを兼ねなければならなかったような私であったから。
 どうかすると、末子のすすり泣く声が階下から伝わって来る。それを聞きつけるたびに、私はしかけた仕事を捨てて、梯子段《はしごだん》を駆け降りるように二階から降りて行った。
 私はすぐ茶の間の光景を読んだ。いきなり箪笥《たんす》の前へ行って、次郎と末子の間にはいった。太郎は、と見ると、そこに争っている弟や妹をなだめようでもなく、ただ途方に暮れている。婆やまでそこいらにまごまごしている。
 私は何も知らなかった。末子が何をしたのか、どうして次郎がそんなにまで平素のきげんをそこねているのか、さっぱりわからなかった。ただただ私は、まだ兄たち二人とのなじみも薄く、こころぼそく、とかく里心《さとごころ》を起こしやすくしている新参者《しんざんもの》の末子がそこに泣いているのを見た。
 次郎は妹のほうを鋭く見た。そして言った。
 「女のくせに、いばっていやがらあ。」
 この次郎の怒気を帯びた調子が、はげしく私の胸を打った。
 兄とは言っても、そのころの次郎はようやく十三歳ぐらいの子供だった。日ごろ感じやすく、涙もろく、それだけ激しやすい次郎は、私の陰に隠れて泣いている妹を見ると、さもいまいましそうに、
 「とうさんが来たと思って、いい気になって泣くない。」
 「けんかはよせ。末ちゃんを打つなら、さあとうさんを打て。」
 と、私は箪笥《たんす》
前へ 次へ
全21ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング