》あたりをさんざんさがし回ったあげく、住み心地《ごこち》のよさそうな借家も見当たらずじまいに、むなしく植木坂《うえきざか》のほうへ帰って行った。いつでもあの坂の上に近いところへ出ると、そこに自分らの家路が見えて来る。だれかしら見知った顔にもあう。暮れから道路工事の始まっていた電車通りも石やアスファルトにすっかり敷きかえられて、橡《とち》の並み木のすがたもなんとなく見直す時だ。私は次郎と二人《ふたり》でその新しい歩道を踏んで、鮨屋《すしや》の店の前あたりからある病院のトタン塀《べい》に添うて歩いて行った。植木坂は勾配《こうばい》の急な、狭い坂だ。その坂の降り口に見える古い病院の窓、そこにある煉瓦塀《れんがべい》、そこにある蔦《つた》の蔓《つる》、すべて身にしみるように思われてきた。
下女のお徳は家のほうに私たちを待っていた。私たちが坂の下の石段を降りるのを足音できき知るほど、もはや三年近くもお徳は私の家に奉公していた。主婦というもののない私の家では、子供らの着物の世話まで下女に任せてある。このお徳は台所のほうから肥《ふと》った笑顔《えがお》を見せて、半分子供らの友だちのような、慣れ慣れしい口をきいた。
「次郎ちゃん、いい家があって?」
「だめ。」
次郎はがっかりしたように答えて、玄関の壁の上へ鳥打帽《とりうちぼう》をかけた。私も冬の外套《がいとう》を脱いで置いて、借家さがしにくたぶれた目を自分の部屋《へや》の障子の外に移した。わずかばかりの庭も霜枯れて見えるほど、まだ春も浅かった。
私が早く自分の配偶者《つれあい》を失い、六歳を頭《かしら》に四人の幼いものをひかえるようになった時から、すでにこんな生活は始まったのである。私はいろいろな人の手に子供らを託してみ、いろいろな場所にも置いてみたが、結局父としての自分が進んでめんどうをみるよりほかに、母親のない子供らをどうすることもできないのを見いだした。不自由な男の手一つでも、どうにかわが子の養えないことはあるまい、その決心にいたったのは私が遠い外国の旅から自分の子供のそばに帰って来た時であった。そのころの太郎はようやく小学の課程を終わりかけるほどで、次郎はまだ腕白盛《わんぱくざか》りの少年であった。私は愛宕下《あたごした》のある宿屋にいた。二部屋《ふたへや》あるその宿屋の離れ座敷を借り切って、太郎と次郎の二人《ふ
前へ
次へ
全41ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング