筍《たけのこ》のような勢いでずんずん成長して来た次郎や、三郎や、それから末子をよく見て、時にはこれが自分の子供かと心に驚くことさえもある。
私たち親子のものは、遠からず今の住居《すまい》を見捨てようとしている時であった。こんなにみんな大きくなって、めいめい一部屋《ひとへや》ずつを要求するほど一人前《いちにんまえ》に近い心持ちを抱《いだ》くようになってみると、何かにつけて今の住居《すまい》は狭苦《せまぐる》しかった。私は二階の二部屋を次郎と三郎にあてがい(この兄弟《きょうだい》は二人《ふたり》ともある洋画研究所の研究生であったから、)末子は階下にある茶の間の片すみで我慢させ、自分は玄関|側《わき》の四畳半にこもって、そこを書斎とも応接間とも寝部屋《ねべや》ともしてきた。今一部屋もあったらと、私たちは言い暮らしてきた。それに、二階は明るいようでも西日が強く照りつけて、夏なぞは耐えがたい。南と北とを小高い石垣《いしがき》にふさがれた位置にある今の住居《すまい》では湿気の多い窪地《くぼち》にでも住んでいるようで、雨でも来る日には茶の間の障子《しょうじ》はことに暗かった。
「ここの家には飽きちゃった。」
と言い出すのは三郎だ。
「とうさん、僕と三ちゃんと二人で行ってさがして来るよ。いい家があったら、とうさんは見においで。」
次郎は次郎でこんなふうに引き受け顔に言って、画作の暇さえあれば一人《ひとり》でも借家をさがしに出かけた。
今さらのように、私は住み慣れた家の周囲を見回した。ここはいちばん近いポストへちょっとはがきを入れに行くにも二|町《ちょう》はある。煙草屋《たばこや》へ二町、湯屋へ三町、行きつけの床屋《とこや》へも五六町はあって、どこへ用達《ようたし》に出かけるにも坂を上《のぼ》ったり下《くだ》ったりしなければならない。慣れてみれば、よくそれでも不便とも思わずに暮らして来たようなものだ。離れて行こうとするに惜しいほどの周囲でもなかった。
実に些細《ささい》なことから、私は今の家を住み憂《う》く思うようになったのであるが、その底には、何かしら自分でも動かずにいられない心の要求に迫られていた。七年住んでみればたくさんだ。そんな気持ちから、とかく心も落ちつかなかった。
ある日も私は次郎と連れだって、麻布《あざぶ》笄町《こうがいちょう》から高樹町《たかぎちょう
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