たり》だけをそこから学校へ通わせた。食事のたびには宿の女中がチャブ台などを提《さ》げながら、母屋《おもや》の台所のほうから長い廊下づたいに、私たちの部屋までしたくをしに来てくれた。そこは地方から上京するなじみの客をおもに相手としているような家で、入れかわり立ちかわり滞在する客も多い中に、子供を連れながら宿屋ずまいする私のようなものもめずらしいと言われた。
 外国の旅の経験から、私も簡単な下宿生活に慣れて来た。それを私は愛宕下《あたごした》の宿屋に応用したのだ。自分の身のまわりのことはなるべく人手を借りずに。そればかりでなく、子供にあてがう菓子も自分で町へ買いに出たし、子供の着物も自分で畳《たた》んだ。
 この私たちには、いつのまにか、いろいろな隠し言葉もできた。
 「あゝ、また太郎さんが泣いちゃった。」
 私はよくそれを言った。少年の時分にはありがちなことながら、とかく兄のほうは「泣き」やすかったから、夜中に一度ずつは自分で目をさまして、そこに眠っている太郎を呼び起こした。子供の「泣いたもの」の始末にも人知れず心を苦しめた。そんなことで顔を紅《あか》めさせるでもあるまいと思ったから。
 次第に、私は子供の世界に親しむようになった。よく見ればそこにも流行というものがあって、石蹴《いしけ》り、めんこ、剣玉《けんだま》、べい独楽《ごま》というふうに、あるものははやりあるものはすたれ、子供の喜ぶおもちゃの類までが時につれて移り変わりつつある。私はまた、二人《ふたり》の子供の性質の相違をも考えるようになった。正直で、根気《こんき》よくて、目をパチクリさせるような癖のあるところまで、なんとなく太郎は義理ある祖父《おじい》さんに似てきた。それに比べると次郎は、私の甥《おい》を思い出させるような人なつこいところと気象の鋭さとがあった。この弟のほうの子供は、宿屋の亭主《ていしゅ》でもだれでもやりこめるほどの理屈屋だった。
 盆が来て、みそ萩《はぎ》や酸漿《ほおづき》で精霊棚《しょうりょうだな》を飾るころには、私は子供らの母親の位牌《いはい》を旅の鞄《かばん》の中から取り出した。宿屋ずまいする私たちも門口《かどぐち》に出て、宿の人たちと一緒に麻幹《おがら》を焚《た》いた。私たちは順に迎え火の消えた跡をまたいだ。すると、次郎はみんなの見ている前で、
 「どれ三ちゃんや末ちゃんの分をもまた
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