く時分から、透谷君自身のライフも、次第に磨り減らされて行ったように見える。
透谷君がよく引っ越して歩いた事は、已に私は話した事があるから、知っている読者もあるであろうと思うが、一時高輪の東禅寺の境内を借りて住んでいた事があって、彼処《そこ》で娘のふさ子さんが生れた。彼処に一人食客がいた事は、戸川君も一度書いた事があるが、何を為そうとするでもないような、心細い人を世話して、一緒に飯を分けて食うというような処が北村君にはあった。或る日、私が訪ねて行くと、結婚の問題で考えに悩んで、北村君の処へ相談に来ている婦人があった。私共三人は、墓場の石に腰掛けて、話した事なぞを覚えている。北村君の書いたものは、論文と云っても皆な自分の生活に交渉の深い、一種の創作であった。殊にサイコロジカルな処が、外の人達と違った特色であると思う。『鬼心非鬼心』という文章は、寺の借住居の附近にあった事を、主にして書いたものだ。それから、麻布霞町の方へ移って、山羊なぞを飼って見た事もあったが、これには余程詩人風の空想が混っていた。星野天知君は、その後鎌倉の方へ引き込まれた北村君から、その山羊を引き取った事がある。そして「
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