らない」というので、国府津の前川村の方へ引き移ったのだ。丁度文学界を出す時分から、私も一時漂泊の生活を送ったが、その以前に私は巌本君に勧められて、明治女学校で教えていた。北村君もそう収入が無いと思ったから、僅かばかりの自分の学校の仕事を北村君に譲って、私は旅へ出懸けたりした。北村君は国府津へ移ってからも矢張り其処から、明治女学校へ教えに通っていた。或る時私に、「幸田という人は仕合者《しあわせもの》だね」と云って、当時の文学者としては相応な酬いを受けていた露伴氏の事を、羨《うらや》んで話した事があったが、それほど貧しく暮さなければならない境涯で、そのためには異人の仕事をしたり、それから『平和』という宗教雑誌を編輯したりした事があるように記憶している。国府津の寺は、北村君の先祖の骨を葬ってある、そういう所縁《ゆかり》のある寺で、彼処では又北村君の外の時代で見られない、静かな、半ば楽しい、半ば傷ついている時が来たようであった。「国府津時代は楽しゅうござんした」とよく細君が北村君の亡くなった後で、私達に話した事があった。『蝶の歌』が出来たのもあの海岸だし、それから『一夕観』などを書いたのも彼処
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