坐って、頑張っていようという人だから、北村君の苛々《いらいら》した所は、阿母さんには喜ばれなかった。暫《しばら》く病んでいた後で、北村君が自殺を企てた当時の心境は、私は『春』の中でいくらか辿《たど》って見た。それを家の人に見付かって、病院へ送られて、兎に角傷は癒った。細君も心配して、も一度芝公園の家を借りて、それには友達ながらも種々心配して呉《くれ》た人があって、其処で養生した。丁度彼れ是れ半年近くも、あの公園の家で暮したろうか。もう余程違った頭脳《あたま》の具合だったから、なるべく人にも会わなかったし、細君も亦客なぞ断るという風であった。二度目に其処へ移ってからは、もう殆んど筆を執るような人ではなかった。巌本君が心配して、押川方義氏を連れて、一度公園の家を訪ねて、宗教事業にでも携わったらどうか、という話をしたという事を聞いたが、後で私が訪ねて行くと、「巌本君達が来て、宗教の話をして呉れたが、どうしても僕には信じるという心が起らないからね」と、そんな風に話した事もあった。北村君もそんな風になった以上は仕方が無いし、吾々は吾々で、又更に新しく進んで見ようという心持になって、文学界の連中は各自《めいめい》思い思いに歩き始めた時であった。たまに訪ねて行くと、奥の方の小さい、薄暗いような部屋に這入っていて、「滅多に人にも会わないのだが、君等だから会うのだ」と云って、突いて癒った咽喉《のど》の傷などを、出して見せた。「何しろどうもこの傷の跡があるんだからね」なぞと云って、頻《しき》りにその傷の跡を気にしていた。戸川君と一緒に訪ねた時には、何でもエマルソンの本が出来た時で、細君が民友社から届いた本を持って来て、私に見せたが、北村君はその本を手に取って見たという位で、中を開けて見る気も無いという風であった。細君はもう夜中も、夫の様子に注意するという風になって、非常に気を付けて看護をしたのであったが、丁度五月十六日の晩の月夜に、自分の病室を脱け出して、家の周囲《まわり》にある樹に細引を掛けて、それに縊《くび》れて二十七歳で死んだ。その素質に於いては稀《まれ》に見る詩人であり、思想家であった、北村君の惜む可き一生は斯うして終った。
北村君は明治元年に小田原で生れた人だ。阿父《おとう》さんは小田原の士族であった。まだ小さな時分に、両親は北村君を祖父母の手に託して置いて、東京に出た。北村君は十一の年までは小田原にいて、非常に厳格な祖父の教育の下に、成長した。祖母という人は、温順な人ではあったが、実の祖母では無くて、継祖母であった。北村君自身の言葉を借りて云えば、不覊磊落《ふきらいらく》な性質は父から受け、甚だしい神経質と、強い功名心とは母から受けた。斯ういう気風は少年の時からあって、それが非常にやかましい祖父の下に育てられ、祖母は又自分に対する愛情が薄かったという風で、後に成って気欝病を発した一番の大本は其処から来たと自白して居る。明治十四年に東京へ移って、そして途中から数寄屋橋の泰明小学校へ這入った。透谷という号は、この数寄屋橋のスキヤから来たのである。私も小学校の課程は、北村君と同じ泰明小学校で修めた者だが、北村君よりはその弟の丸山古香君の方を、その時代にはよく覚えている。北村君は方々の私立学校を経て、今の早稲田大学が専門学校と云った時代の、政治科にいた事もあったと聞いた。当時の青年はこう一体に、何れも政治思想を懐くというような時で、北村君もその風潮に激せられて、先ず政治家になろうと決したのだが、その後一時非常に宗教に熱した時代もあった。北村君のアンビシャスであった事は、自ら病気であると云ったほど、激しい性質のものらしかった。そういう性質はずっと後になっても、眉宇《びう》の間に現われていて、或る人々から誤解されたり、余り好かれなかったりしたというのは、そんな点の現われた所であったろうと思う。まだ二十位の青年の時代に或る時は東洋の救世主を以て任ずるような空想な日を送って、後になって、余り自分の空想が甚だしかった事と、その後に起る失望、落胆の激しい事に驚いた、と書いたものなぞもある。或る時は又一個の大哲学家となって、欧洲の学者を凹ませようと考えた事もあって、その考えは一年の間も続いて、一分時間も脳中を去らなかった。こういう妄想を、而《しか》も斯ういう長い年月の間、頭脳《あたま》の裏《うち》に入れて置くとは、何という狂気染《きちがいじ》みた事だろう、と書いたものなぞがあるが、頭脳が悪かったという事は、時々書いたものにも見えるようである。北村君はある点まで自分の Brain Disease を自覚して居て、それに打勝とう打勝とうと努めた。北村君の天才は恐るべき生の不調和から閃き発して来た。で、種々な空想に失望したり、落胆したりして、それから空しい功名
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