北村透谷の短き一生
島崎藤村
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《》:ルビ
(例)已《すで》に
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(例)一番|終《しま》い
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(例)[#地から1字上げ](大正二年四月)
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北村透谷君の事に就ては、これまでに折がある毎に少しずつ自分の意見を発表してあるから、私の見た北村君というものの大体の輪廓は、已《すで》に世に紹介した積りである。北村君の生涯の中の晩年の面影だとか、北村君の開こうとした途《みち》だとか、そういう風のものに就ては私は已にいくらか発表してある。明治年代も終りを告げて、回顧の情が人々の心の中に浮んで来た時に、どういう人の仕事を挙げるかという問に対しては、いつでも私は北村君を忘れられない人の一人に挙げて置いた。北村君の一番|終《しま》いの仕事は、民友社から頼まれて書いたエマルソンの評伝であった。それは十二文豪の一篇として書いたものだが、すっかり書き終らなかったもので、丁度病中に細君が私の処へその原稿を持って来て、これを纏《まと》めて呉れないかという話があって、その断片的な草稿を文字の足りない処を書き足して、一冊の本に纏めたという縁故もあり、それから同君が亡くなった後で書いたものなどが散って了うのが惜しいと思って、種々の雑誌などから集めて透谷集というものに作ったのも自分であった。元々私はそう長く北村君を知っていた訳では無い。付き合って見たのは晩年の三年間位に過ぎない。しかし、その私が北村君と短い知合になった間は、私に取っては何か一生忘れられないものでもあり、同君の死んだ後でも、書いた反古《ほご》だの、日記だの、種々《いろいろ》書き残したものを見る機会もあって、長い年月の間私は北村君というものをスタディして居た形である。『春』の中に、多少北村君の面影を伝えようと思ったが、それも見たり聞いたりした事をその儘漫然と叙述したというようなものでは無くて、つまり私がスタディした北村君を写したものである。北村君のように進んで行った人の生涯は、実に妙なもので、掘っても掘っても尽きずに、後から後から色々なものが出て来るように思われる。これは北村君を知っていたからと云って、無暗に友達を賞めようという積りではない。成程《なるほど》過ぎ去った歴史上には種々優れた人もあるが、同時代にいた、しっかりした友達の方に、却《かえ》って教えられた事は多いのである。
北村君が亡くなった後で、京橋鎗屋町の煙草屋の二階(北村君の阿母《おっか》さんは煙草店を出して居られた)へ上って、残して置いて行ったものを調べた事があった。その時細君が取り出して来たいくつかの葛籠《つづら》を開けたら、種々反古やら、書き掛けたものやらが、部屋中一杯になるほど出て来た。北村君はどんな破って了いたいようなものでも、自分の書いたものは、皆大切に、細君に仕舞わせて置いた。そんな一寸した事にも北村君の人となりというものは出ていると思う。その中には小説の書き掛けがあったり、種々な劇詩の計画を書いたものがあったり、その題目などは二度目に版にした透谷全集の端に序文の形で書きつけて置いたが、大部分はまあ、遺稿として発表する事を見合わした方が可いと思った位で、戯曲の断片位しか、残った草稿としては世に出さなかった。然しその古い反古を見ると、北村君の歩いて行った途の跡が付いているような気がした。例を挙げて見ると『蓬莱曲』を書く以前に『楚囚詩』というものを書いている。あれなぞをこう比べて見ると、北村君の行き方は、一度ある題目を捉えると容易にそれを放擲して了うという質《たち》の人では無い、何度も何度も心の中で繰り返されて、それが筆に上る度に、段々作物の味《あじわい》が深くなってゆくという感じがする。『富嶽の詩神を懐ふ』という一篇なぞは、矢張り、『蓬莱曲』の後に書いたものだが、よく読んで見ると、作と作との相連絡している処が解るように思う。一体北村君の書いたものは、死ぬ三四年前あたりから、急に光って来たような処があって、一呼吸《ひといき》にああいう処へ躍り入ったような風に見えたが、その残して置いた反古なぞを見ると、透谷集の中にある面白い深味のあるものが、皆ずっと以前の幼稚なものから、出発して来ていることが解った。その反古は今ではもうどうなったか解らないが、でもこう葉に葉を重ねて、同じ力で貫いて行ったというような処が、あの人の面白味のあった処だ。
北村君の文学生活は種々な試みを遣《や》って見た、準備時代から始まったものではあるが、真個《ほんと》に自分を出して来るようになったのは、『蓬莱曲』を公けにした頃からであろう。当時巌本善治氏の主宰していた女学雑誌は、婦人雑誌ではあったが、然し文学宗教其他種
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