全で可《い》かん」とあべこべに健全を以て任ずる人達を、罵《ののし》るほどの意気で立っていた。北村君が最初の自殺を企てる前、病いにある床の上に震えながらも、斯《こ》ういう豪語を放っていたという事は、如何にも心のひるまなかった証拠であると思う。文学界へ書くようになってからの北村君は、殆んど若い戦士の姿で、『人生に相渉るとは何ぞや』とか『頑執盲排の弊を論ず』とか、激越な調子の文章が続々出て来て、或る号なぞは殆んど一人で、雑誌の半分を埋めた事もあった。明治年代の文学を回顧すると民友社というものは、大きな貢献をした事は事実であるし、蘆花、独歩、湖処子の諸君の仕事も、民友社という事からは離しては考えられない。遠くから望むと一群の林のような観をなしていたが、民友社にも種々異った意見を持った人が混っていて、透谷君の激しい論戦は主に民友社の徳富蘇峰氏、山路愛山氏などを対手取ったものであった。でも愛山氏などは、殆んど正反対に立った論敵ではあったが、一面北村君とは仲の宜い友達でもあった。それから喧嘩をして却《かえ》って対手に知られた形で、北村君は国民の友や、国民新聞なにかへも寄稿するようになった。その中で、『他界に対する観念』は、北村君の宗教的な、考え深い気質をよく現わしたものである。それから国民の友の附録に、『宿魂鏡』という小説を寄稿した事があったが、あれは自分で非常に不出来だったと云って、透谷の透の字を桃という字に換えて、公けにしようかと私に話した位であった。あの作は透谷君の得意の作では無論無かったと思うが、でも私にはその病的な方面が窺《うかが》われるかと思う。文学界に関係される頃から、透谷君は半ば病める人であったと、後になって気が着いたが、皆と一緒になって集って話していても、直《す》ぐに身体を横にしたり、何か身を支えるものが欲しいというような様子をしていた。斯ういう身体だったから、病的な人間の事にも考え及んでいたらしく、その事は内田魯庵氏の訳された『罪と罰』の評なぞにも現われていると思う。透谷君の晩年を慰めた一人の女の友達があったが、病床にいる時に、それとなくこの人に書いて宛てた慰めの言葉は、確か『山庵雑記』の中に出ている筈だ。あれは極く短いものだが、兎に角病人に対する深い理解や、同情が籠っていると思う。この女の友達が死んだ時に、透谷君が『哀詞』というものを書いた。ああいうものを書
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