々の方面に渉って、徳富蘇峰氏の国民の友と相対した、一つの大きな勢力であった。北村君を先ず文壇に紹介したのは、この巌本善治氏であった。『厭世詩家と女性』その他のものを、北村君が発表し始めたのは女学雑誌であったし、ああいう様式を取って、自分を現わそうとしたという事も、つまりこの女学雑誌という舞台があったからだ。殊に雑誌が雑誌だったから、婦人に読ませるということを中心にして、題目を択んだものもあった。処女の純潔を論じたり、その他恋愛観なぞを書き現わしたものにも、一面婦人のために書いているような趣きのあるのはその故である。その頃女学雑誌には星野天知君もかなり深く関係していた。巌本氏は清教徒的の見地から、文学を考えているような人だったから、純文芸に向おうとするものは、意見の合わないような処が出来て来た。星野君の家は日本橋本町四丁目の角にあった砂糖問屋で、男三郎君というシッカリした弟があり、おゆうさんという妹もあり兄弟|挙《こぞ》って文学に趣味を持つという人達だったから、その星野君が女学雑誌から離れて、一つ吾々の手で遣ろうではないかという相談を持ち出して、それに平田|禿木《とくぼく》君が主なる相談|対手《あいて》になり、北村君と私とも雑誌に関係する事になった。そんな風にして出来上ったのが、文学界の始まりだった。平田君の家は日本橋伊勢町にあって、星野君の家とも近く、男三郎君とは一緒に高等学校へ通って居られるという時代だった。吾々はよく、あの砂糖屋の奥にあった、茶室風の部屋に集って、其処《そこ》で一緒に茶を呑みながら、雑誌を編輯したり、それから文学を談じたりして時の経つのを忘れる位であった。戸川秋骨君、馬場孤蝶君は、私が明治学院時代の友達という関係から、自然と文学界の仲間入をされるようになった。こんな風にして、皆親しく往来するようになったのだが、兎に角文学界というものを起そうとしたのは、星野君兄弟と、平田禿木君とで、殊に男三郎君は、大学へ行って工科でも択ぼうという位の綿密な、落ち着いた人だったから、殆んど自分では表立って何も発表しなかったが、種々な面倒臭い雑用なんかを一人で引き受けて、随分あの雑誌のためには蔭になって力を尽した人であった。文学界の先ず受けた非難は、不健全という事であった。それに対しても吾々若いものは皆激しい意気込を持っていたから、北村君などは「どうも世間の奴等は不健
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