るが、同時代にいた、しっかりした友達の方に、却《かえ》って教えられた事は多いのである。
 北村君が亡くなった後で、京橋鎗屋町の煙草屋の二階(北村君の阿母《おっか》さんは煙草店を出して居られた)へ上って、残して置いて行ったものを調べた事があった。その時細君が取り出して来たいくつかの葛籠《つづら》を開けたら、種々反古やら、書き掛けたものやらが、部屋中一杯になるほど出て来た。北村君はどんな破って了いたいようなものでも、自分の書いたものは、皆大切に、細君に仕舞わせて置いた。そんな一寸した事にも北村君の人となりというものは出ていると思う。その中には小説の書き掛けがあったり、種々な劇詩の計画を書いたものがあったり、その題目などは二度目に版にした透谷全集の端に序文の形で書きつけて置いたが、大部分はまあ、遺稿として発表する事を見合わした方が可いと思った位で、戯曲の断片位しか、残った草稿としては世に出さなかった。然しその古い反古を見ると、北村君の歩いて行った途の跡が付いているような気がした。例を挙げて見ると『蓬莱曲』を書く以前に『楚囚詩』というものを書いている。あれなぞをこう比べて見ると、北村君の行き方は、一度ある題目を捉えると容易にそれを放擲して了うという質《たち》の人では無い、何度も何度も心の中で繰り返されて、それが筆に上る度に、段々作物の味《あじわい》が深くなってゆくという感じがする。『富嶽の詩神を懐ふ』という一篇なぞは、矢張り、『蓬莱曲』の後に書いたものだが、よく読んで見ると、作と作との相連絡している処が解るように思う。一体北村君の書いたものは、死ぬ三四年前あたりから、急に光って来たような処があって、一呼吸《ひといき》にああいう処へ躍り入ったような風に見えたが、その残して置いた反古なぞを見ると、透谷集の中にある面白い深味のあるものが、皆ずっと以前の幼稚なものから、出発して来ていることが解った。その反古は今ではもうどうなったか解らないが、でもこう葉に葉を重ねて、同じ力で貫いて行ったというような処が、あの人の面白味のあった処だ。
 北村君の文学生活は種々な試みを遣《や》って見た、準備時代から始まったものではあるが、真個《ほんと》に自分を出して来るようになったのは、『蓬莱曲』を公けにした頃からであろう。当時巌本善治氏の主宰していた女学雑誌は、婦人雑誌ではあったが、然し文学宗教其他種
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