く時分から、透谷君自身のライフも、次第に磨り減らされて行ったように見える。
透谷君がよく引っ越して歩いた事は、已に私は話した事があるから、知っている読者もあるであろうと思うが、一時高輪の東禅寺の境内を借りて住んでいた事があって、彼処《そこ》で娘のふさ子さんが生れた。彼処に一人食客がいた事は、戸川君も一度書いた事があるが、何を為そうとするでもないような、心細い人を世話して、一緒に飯を分けて食うというような処が北村君にはあった。或る日、私が訪ねて行くと、結婚の問題で考えに悩んで、北村君の処へ相談に来ている婦人があった。私共三人は、墓場の石に腰掛けて、話した事なぞを覚えている。北村君の書いたものは、論文と云っても皆な自分の生活に交渉の深い、一種の創作であった。殊にサイコロジカルな処が、外の人達と違った特色であると思う。『鬼心非鬼心』という文章は、寺の借住居の附近にあった事を、主にして書いたものだ。それから、麻布霞町の方へ移って、山羊なぞを飼って見た事もあったが、これには余程詩人風の空想が混っていた。星野天知君は、その後鎌倉の方へ引き込まれた北村君から、その山羊を引き取った事がある。そして「どうも北村君には一杯|嵌《は》められました。子供をお腹に持っているというから、その積りで引き取ったら、子供があるんではなかった」と私に話して、笑った事があった。北村君は又芝公園へ移ったが、其処《そこ》は紅葉館の裏手に方《あた》る処で、土地が高く樹木が欝蒼とした具合が、北村君の性質によく協《かな》ったという事は、書いたものの中にも出ている。あの芝公園の家は余程気に入ったものと見えて、彼処で書いたものの中には、懐しみの多いものが沢山出来た。『星夜』というものを書いたのもあの林の中だ。短い冥想の記録のようなもので、彼処で書いたものには、私の好きなものが沢山ある。意地の悪い鳥が来て高い梢の上で啼くのを聞いて、皮肉屋というものが、文壇にばかりいると思ったら、こんな処にもいた、というような事を書きつけた事があったが、斯ういう軽い気分を持つ事が出来たほど、彼処の住居《すまい》は楽しかったのであろうと思う。彼処から奥州の方へ旅をして、帰って来て、『松島に於て芭蕉翁を読む』という文章を発表したが、その旅から帰る頃から、自分でも身体に異状の起って来た事を知ったと見えて、「何でも一つ身体を丈夫にしなくちゃな
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