たらますます官僚万能の世の中さ。まあ、青山君、君だって、こんなはずじゃなかったと思うでしょう。見たまえ、この際、力をかつぎ出そうとする連中なぞが士族仲間から頭を持ち上げて来ましたぜ。征韓《せいかん》、征韓――あの声はどうです。もとより膺懲《ようちょう》のことは忘れてはならない。たとい外国と和親を結んでも、曲直は明らかにせねばならない。国内の不正もまたたださねばならない。それはもう当然なことです。しかし全国人民の後ろ楯《だて》なしに、そんな力がかつぎ出せるものか、どうか。なるほど、不平のやりどころのない士族はそれで納まるかもしれないが、百姓や町人はどうなろう。御一新の成就もまだおぼつかないところへ持って来て、また中世を造るようなことがあっちゃならない。早く中世をのがれよというのが、あの本居先生なぞの教えたことじゃなかったですか……」
酒の酔いが回るにつれて、正香は日ごろ愛誦《あいしょう》する杜詩《とし》でも読んで見たいと言い出し、半蔵がそこへ取り出して来た幾冊かの和本の集注を手に取って見た。正香はそれを半蔵に聞かせようとして、何か自身に気に入ったものをというふうに、浣花渓《かんかけい》の草堂の詩を読もうか、秋興八首を読もうかと言いながら、しきりにあれかこれかと繰りひろげていた。
「ある。ある。」
その時、正香は行燈《あんどん》の方へすこし身を寄せ、一語一句にもゆっくりと心をこめて、杜詩の一つを静かに声を出して読んだ。
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※[#「糸+丸」、第3水準1−89−90]袴不[#二]餓死[#一]、儒冠多誤[#レ]身
丈人試静聴、賤子請具陳
甫昔少年日、早充[#二]観国賓[#一]
読[#レ]書破[#二]万巻[#一]、 下[#レ]筆如[#レ]有[#レ]神
賦料[#二]楊雄敵[#一]、詩看[#二]子建親[#一]
李※[#「巛/邑」、第3水準1−92−59]求[#レ]識[#レ]面、王翰願[#レ]卜[#レ]隣
自謂頗挺出、立登[#二]要路津[#一]
致[#二]君堯舜上[#一]、再使[#二]風俗淳[#一]
此意竟蕭条、……………
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そこまで読みかけると、正香はその先を読めなかった。「この意《こころ》、竟《つい》に蕭条《しょうじょう》」というくだりを繰り返し半蔵に読み聞かせるうちに、熱い涙がその男らしい頬《ほお》を伝って止め度もなく流れ落ちた。
五
正香は一晩しか半蔵の家に逗留《とうりゅう》しなかった。
「青山君、わたしも賀茂の方へ行って、深いため息でもついて来ますよ。」
との言葉を残して、翌朝早く正香は馬籠《まごめ》を立とうとしていた。頼んで置いた軽尻馬《からじりうま》も来た。馬の口をとる村の男はそれを半蔵の家の門内まで引き入れ、表玄関の式台の前で小付け荷物なぞを鞍《くら》に結びつけた。
「お母《っか》さん、暮田さんのお立ちですよ。」
と娘に呼ばれて、お民も和助(半蔵の四男)を抱きながらそこへ飛んで出て来る。
「オヤ、もうお立ちでございますか。中津川へお寄りでしたら、浅見の奥さん(景蔵の妻)へもよろしくおっしゃってください。」
とお民は言った。
半蔵はじめ、お民、お粂から下男の佐吉まで門の外に出て馬上の正香を見送った。動いて行く檜笠《ひのきがさ》が坂になった馬籠の町の下の方に隠れるまで見送った。旧本陣の習慣として、青山の家のものがこんなに門の前に集まることもめったになかったのである。その時、半蔵は正香の仕えに行く賀茂両社の方のことを娘に語り聞かせた。その神社が伊勢《いせ》神宮に次ぐ高い格式のものと聞くことなぞを語り聞かせた。平安朝と言った昔は、歴代の内親王《ないしんのう》が一人《ひとり》は伊勢の斎《いつき》の宮《みや》となられ、一人は賀茂の斎の宮となられる風習となっていたと聞くことなぞをも語り聞かせた。
正香も行ってしまった。例のように半蔵はその日も万福寺内の敬義学校の方へ村の子供たちを教えに出かけて、相手と頼む松雲和尚《しょううんおしょう》にも前夜の客のことを話したが、午後にそこから引き返して見ると、正香の立って行ったあとには名状しがたい空虚が残った。半蔵はそこにいない先輩の前へ復古の道を持って行って考えて見た。彼の旧《ふる》い学友、中津川の景蔵や香蔵などが寝食も忘れるばかりに競い合って、互いに突き入ったのもその道だ。そこには四つの像がある。彼は自分の心も柔らかく物にも感じやすい年ごろに受けた影響がこんなにも深く自分の半生を支配するかと思って見て、心ひそかに驚くことさえある。彼はまた平田一門の前途についても考えて見た。
その時になって見ると、先師没後の門人が全国で四千人にも達した明治元年あたりを平田派全盛時代の頂上とする。伊那の谷あたりの最も篤胤研究のさかんであった地方では、あの年の平田入門者なるものは一年間百二十人の多くに上ったが、明治三年には十九人にガタ落ちがして、同四年にはわずかに四人の入門者を数える。北には倉沢義髄《くらさわよしゆき》を出し、南には片桐春一《かたぎりしゅんいち》、北原稲雄、原|信好《のぶよし》を出し、先師遺著『古史伝』三十一巻の上木頒布《じょうぼくはんぷ》に、山吹社中発起の条山《じょうざん》神社の創設に、ほとんど平田研発者の苗床ともいうべき谷間《たにあい》であった伊那ですらそれだ。これを中央に見ても、正香のいわゆる「政治を高めようとする」祭政一致の理想は、やがて太政官《だじょうかん》中の神祇官を生み、鉄胤先生を中心にする神祇官はほとんど一代の文教を指導する位置にすらあった。大政復古の当時、帝《みかど》には国是の確定を列祖神霊に告ぐるため、わざわざ神祇官へ行幸したもうたほどであったが、やがて明治四年八月には神祇官も神祇省と改められ、同五年三月にはその神祇省も廃せられて教部省の設置を見、同じ年の十月にはついに教部文部両省の合併を見るほどに推し移って来る。今は師も老い、正香のような先輩ですら余生を賀茂の方に送ろうとしている。そういう半蔵が同門の友人仲間でも、香蔵は病み、景蔵は隠れた。これには彼も腕を組んでしまった。
六
王政第六の秋立つころを迎えながら、山里へは新時代の来ることもおそい。いよいよ享保《きょうほう》以前への復古もむなしく、木曾川上流の沿岸から奥地へかけての多数の住民は山にもたよれなかった。山林規則の何たるをわきまえないものが窮迫のあまり、官有林にはいって、盗伐の罪を犯し処刑をこうむるものは増すばかり。そのたびに徴せらるる贖罪《しょくざい》の金だけでも谷中ではすくなからぬ高に上ろうとのうわささえある。
世は革新の声で満たされている中で、半蔵が踏み出して見た世界の実際すらこのとおり薄暗い。まして娘お粂なぞの住んでいるところは、長いこと彼女らのこもり暮らして来た深い窓の下だ。そこにある空気はまだ重かった。
こころみに、十五代将軍としての徳川慶喜《とくがわよしのぶ》が置き土産《みやげ》とも言うべき改革の結果がこの街道にもあらわれて来る前までは、女は手形なしに関所も通れなかった時代のあったことを想像して見るがいい。従来、「出女《でおんな》、入り鉄砲」などと言われ、女の旅は関所関所で食い留められ、髪長《かみなが》、尼、比丘尼《びくに》、髪切《かみきり》、少女《おとめ》などと一々その風俗を区別され、乳まで探られなければ通行することも許されなかったほどの封建時代が過去に長く続いたことを想像して見るがいい。高山霊場の女人禁制は言うまでもなく、普通民家の造り酒屋にある酒蔵のようなところにまで女は遠ざけられていたことを想像して見るがいい。幾時代かの伝習はその抗しがたい手枷《てかせ》足枷《あしかせ》で女をとらえた。そして、この国の女を変えた。遠い日本古代の婦人に見るような、あの幸福で自己を恃《たの》むことが厚い、種々《さまざま》な美しい性質の多くは隠れてしまった。こころみにまた、それらの不自由さの中にも生きなければならない当時の娘たちが、全く家に閉じこめられ、すべての外界から絶縁されていたことを想像して見るがいい。しかもこの外界との無交渉ということは、彼女らが一生涯の定めとされ、歯を染め眉《まゆ》を落としてかしずく彼女らが配偶者となる人の以外にはほとんど何の交渉をも持てなかったことを想像して見るがいい。こんなに深くこもり暮らして来た窓の下にいて、長い鎖国にもたとえて見たいようなその境涯から当時の若い娘たちが養い得た気風とは、いったい、どんなものか。言って見れば、早熟だ。
馬籠旧本陣の娘とてもこの例にはもれない。祖母おまんのような厳格な監督者からお粂のやかましく言われて来たことは、夜の枕《まくら》にまで及んでいた。それは砧《きぬた》ともいい御守殿《ごしゅでん》ともいう木造りの形のものに限られ、その上でも守らねばならない教訓があった。固い小枕の紙の上で髪をこわさないように眠ることはもとより、目をつぶったまま寝返りは打つまいぞとさえ戒められて来たほどである。この娘が早く知恵のついた証拠には、「おゝ、耳がかゆい」と母親のそばに寄って、何かよい事を母親にきかせてくれと言ったのは、まだ彼女が十四、五の年ごろのことであった。この早熟は、ひとりお粂のような娘のみにかぎらない。彼女の周囲にある娘たちは十六ぐらいでも皆おとなだった。
しかし、こんな娘たちの深い窓のところへも、この国全体としての覚醒《かくせい》を促すような御一新がいつのまにかこっそり戸をたたきに来た。あだかも燃ゆるがごとき熱望にみち、温《あたた》かい情感にあふれ、あの昂然《こうぜん》とした独立独歩の足どりで、早くこの戸を明け放てと告げに来る人のように。過ぐる明治四年の十一月、岩倉大使一行に随《したが》って洋学修業のためはるばる米国へ旅立った五名の女子があるなぞはその一つだ。それは北海道開拓使から送られた日本最初の女子留学生であると言われ、十五歳の吉益亮子《よしますあきこ》嬢、十二歳の山川捨松《やまかわすてまつ》嬢なぞのいたいけな年ごろの娘たちで、中にはようやく八歳になる津田梅子《つだうめこ》嬢のような娘もまじっていたとか。大変な評判で、いずれも前もって渡された洋行心得書を懐中《ふところ》にし、成業帰朝の上は婦女の模範ともなれとの声に励まされ、稚児髷《ちごまげ》に紋付|振袖《ふりそで》の風俗で踏み出したとのことであるが、横浜港の方にある第一の美麗な飛脚船、太平洋汽船会社のアメリカ号、四千五百トンからの大船がこの娘たちを乗せて動いて行ったという夢のような光景は、街道筋にいて伝え聞くものにすら、新世界の舞台に向かってかけ出そうとするこの国のあがきを感じさせずには置かなかった。追い追いと女学もお取り建ての時勢に向かって、欧米教育事業の視察の旅から帰って来た尾州藩出身の田中|不二麿《ふじまろ》が中部地方最初の女学校を近く名古屋に打ち建てるとのうわさもある。一方には文明開化の波が押し寄せ、一方には朝鮮征伐の声が激し、旧《ふる》い物と新しい物とが入れまじって、何がこの先見えて来るやかもわからないような暗い動揺の空気の中で、どうして娘たちの心ばかりそう静かにしていられたろう。
九月にはいると、お粂が結婚のしたくのことについて、南殿村の稲葉の方からはすでにいろいろと打ち合わせがある。嫁女《よめじょ》道中も三日がかりとして、飯田《いいだ》泊まりの日は伝馬町屋《てんまちょうや》。二日目には飯島《いいじま》扇屋《おうぎや》泊まり。三日目に南殿村着。もっとも、馬籠から飯田まで宿継ぎの送り人足を出してくれるなら、そこへ迎えの人足を差し出そうというようなことまで、先方からは打ち合わせが来ている。
「お粂、よい晴れ着ができましたよ。どれ、お父《とっ》さんにもお目にかけて。」
お民は娘のために新調した結婚の衣裳《いしょう》を家の女衆に見せて、よろこんでもらおうとしたばかりでなく、それを店座敷にまで抱きかかえて行って、夫のいる部屋《へや》の襖《ふすま》に掛けて見せた。
男の目にも好ましい純白な
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