の廃関に。本陣、脇《わき》本陣、問屋、庄屋、組頭の廃止に。一切の宿場の改変に。引きつづく木曾谷の山林事件に。彼は一日も忘れることのない師|鉄胤《かねたね》のもとにすら久しいこと便《たよ》りもしないくらいであったと語った。彼はまた、師のあとを追って東京に出た中津川の友人香蔵のことを正香の前に言い出し、師が参与と神祇官《じんぎかん》判事とを兼ねて後には内国局判事と侍講との重い位置にあったころは、(ちなみに、鉄胤は大学大博士ででもあった)、あの友人も神祇|権少史《ごんしょうし》にまで進んだが、今は客舎に病むと聞くと語った。彼らは互いに執る道こそ異なれ、同じ御一新の成就を期待して来たとも語った。香蔵からは、いつぞやも便りがあって、「同門の人たちは皆祭葬の事にまで復古を実行しているのに、君の家ではまだ神葬祭にもしないのか」と言ってよこしたが、木曾山のために当時奔走最中の彼が暗い行燈《あんどん》のかげにその手紙を読んだ時は、思わず涙をそそった。そんな話も出た。
「暮田さん、あなたにお目にかけるものがある。」
と言って、半蔵は一幅の軸を袋戸棚《ふくろとだな》から取り出した。それを部屋《へや》の壁に掛けて正香に見せた。
鈴《すず》の屋翁《やのおきな》画詠、柿本大人《かきのもとのうし》像、師岡正胤主《もろおかまさたねぬし》恵贈としたものがそこにあった。それはやはり同門の人たちの動静を語るもので、今は松尾|大宮司《だいぐうじ》として京都と東京の間をよく往復するという先輩師岡正胤を中津川の方に迎え、その人を中心に東濃地方同門の四、五人の旧知のものが小集を催した時の記念である。その時の正胤から半蔵に贈られたものである。本居宣長《もとおりのりなが》の筆になった人麿《ひとまろ》の画像もなつかしいものではあったが、それにもまして正香をよろこばせたのは、画像の上に書きつけてある柿本大人の賛《さん》だ。宣長と署名した書体にも特色があった。あだかも、三十五年にわたる古事記の研究をのこした大先輩がその部屋に語り合う正香と半蔵との前にいて、古代の万葉人をさし示し、和魂《にぎみたま》荒魂《あらみたま》兼ねそなわる健全な人の姿を今の正眼《まさめ》に視《み》よとも言い、あの歌に耳を傾けよとも言って、そこにいる弟子《でし》の弟子たちを励ますかのようにも見えた。
半蔵の継母が孫たちを連れてそこへ挨拶《あいさつ》に来たので、しばらく二人の話は途切れた。これは半蔵の長男、これは三男とおまんに言われて、宗太や森夫も改まった顔つきをしながら客の前へお辞儀に出る。
「暮田さんは信州岩村田の御出身でいらっしゃるそうですね。そういえば、どっか山国のおかたらしい。」とおまんは客に言って、勝手の方から膳《ぜん》を運ぶお粂を顧みながら、「こんな山家で何もおかまいはできませんが、まあ、ごゆっくりなすってください。」
お粂が持って来て客と父との前に置いた膳の上には、季節がらの胡瓜《きゅうり》もみ、青紫蘇《あおじそ》、枝豆、それにきざみずるめなぞを酒のさかなに、猪口《ちょく》、割箸《わりばし》もそろった。おまんがそれを見て部屋から退くころには、正香はもうあぐらにやる。
「どれ、あの記念の扇子を暮田さんにお目にかけるか。」
と半蔵は言って、師岡正胤らと共に中津川の方で書いたものを正香の前にひろげて見せた。平田|篤胤《あつたね》没後の門人らの思い思いに記《しる》しつけた述懐の歌がその扇子の両面にある。辛《から》い、甘い、限り知られない味わいをふくみ持った世のありさまではあるぞとした意味のものもある。こうして互いにつつがなくめぐりあって見ると、八年は夢のような気がするとした意味のものもある。おくれまいと思ったことは昔であって、今は人のあとにも立ち得ないというような、そんな思いを寄せてあるのは師岡正胤だ。
「へえ、師岡がこんな歌を置いて行きましたかい。」
と言いながら、正香はその扇面に見入った。過ぐる文久三年、例の等持院にある足利《あしかが》将軍らの木像の首を抜き取って京都三条|河原《がわら》に晒《さら》し物にした血気さかんなころの正香の相手は、この正胤だ。その後、正香が伊那《いな》の谷へ来て隠れていた時代は、正胤は上田藩の方に六年お預けの身で、最初の一年間は紋付を着ることも許されず、ただ白無垢《しろむく》のみを許され、日のめも見ることのできない北向きの一室にすわらせられ、わずかに食事ごとの箸先を食い削ってそれを筆に代えながら、襦袢《じゅばん》の袖口《そでぐち》から絞る藍《あい》のしずくで鼻紙に記《しる》しつける歌日記を幽閉中唯一の慰めとしていたという。先帝|崩御《ほうぎょ》のおりの大赦がなかったら、正胤もどうなっていたかわからなかった。この人のことは正香もくわしい。
その時、半蔵は先輩に酒をすすめながら、旧庄屋の職を失うまでの自分の苦《にが》い経験を、山林事件のあらましを語り出した。彼に言わせると、もしこの木曾谷が今しばらく尾州藩の手を離れずにあって、年来の情実にも明るい人が名古屋県出張所の官吏として在職していてくれたら、もっと良い解決も望めたであろう。今のうちに官民一致して前途百年の方針を打ち建てて置きたいという村民総代一同の訴えもきかれたであろう。この谷が山間の一|僻地《へきち》で、舟楫《しゅうしゅう》運輸の便があるでもなく、田野耕作の得があるでもなく、村々の大部分が高い米や塩を他の地方に仰ぎながらも、今日までに人口の繁殖するに至ったというのは山林あるがためであったのに、この山地を官有にして人民一切入るべからずとしたら、どうして多くのものが生きられる地方でないぐらいのことは、あの尾州藩の人たちには認められたであろう。いかんせん、筑摩《ちくま》県の派出官は土地の事情に暗い。廃藩置県以来、諸国の多額な藩債も政府においてそれを肩がわりする以上、旧藩諸財産の没取は当然であるとの考えにでも支配されたものか、木曾谷山地従来の慣例いかんなぞは、てんで福島支庁官吏が問うところでない。言うところは、官有林規則のお請けをせよとの一点張りである。その過酷を嘆いて、ひたすら寛大な処分を嘆願しようとすれば、半蔵ごときは戸長を免職せられ、それにも屈しないで進み出る他の総代のものがあっても、さらに御採用がない。しいて懇願すれば官吏の怒りに触れ、鞭《むち》で打たるるに至ったものがあり、それでも服従しないようなものは本県聴訟課へ引き渡しきっと吟味に及ぶであろうとの厳重な口達をうけて引き下がって来る。その権威に恐怖するあまり、人民一同前後を熟考するいとまもなく、いったんは心ならずも官有林のお請けをしたのであった。
「一の山林事件は、百の山林事件さ。」
と正香は半蔵の語ることを聞いたあとで、嘆息するように言った。
「暮田さん、せっかくおいでくだすっても、ほんとに、何もございませんよ。」
と言いながら、お民も客のいるところへ酒をすすめに来た。彼女は客や主人の膳《ぜん》の上にある箸《はし》休めの皿《さら》をさげて、娘お粂が順に勝手の方から運んで来るものをそのかわりに載せた。遠来の客にもめずらしく思ってもらえそうなものといえば、木曾川の方でとれた「たなびら」ぐらいのもの。それを彼女は魚田《ぎょでん》にして出した。でも、こんな山家料理がかえって正香をよろこばせる。
「奥さんの前ですが、」と正香は一口飲みかけた盃を膳の上に置いて、「いつぞや、お宅の土蔵のなかに隠していただいた時、青山君が瓢箪《ふくべ》に酒を入れて持って来て、わたしに飲ませてくれました。あの時の酒の味はよほど身にしみたと見えて、伊那の方でも思い出し、京都や東京の方に行ってる時も思い出しました。おそらく、わたしは一生あの酒の味を忘れますまい。」
「あれから、十年にもなりますものね。」と半蔵も言った。
お粂がその時、吸い物の向こう付《づ》けになるようなものを盆にのせて持って来た。お民はそれを客にすすめながら、
「蕨《わらび》でございますよ。」
「今時分、蕨とはめずらしい。」正香が言う。
「これは春先の若い蕨を塩漬《しおづ》けにして置いたものですが、塩をもどして、薄味で煮て見ました。御酒の好きな方には、お口に合うかもしれません。一つ召し上がって見てください。」
「奥さん、この前もわたしは中津川の連中と一緒に一度お訪《たず》ねしましたが、しかしお宅の皆さんにしみじみお目にかかるのは、今度初めてです。よいお嬢さんもおありなさる。」
正香の口から聞けば、木曾のような水の清いところに生《お》い育つものは違うというようなことも、そうわざとらしくない。お民は自分の娘のことを客の方から言い出されたうれしさに、
「おかげさまで、あれも近いうちに伊那の方へ縁づくことになりました。」
と言って見せた。
正香も伊那の放浪時代と違い、もはや御一新の大きな波にもまれぬいて来たような人である。お民が店座敷から出て行くのを見送った後、半蔵は日ごろ心にかかる平田一門の前途のことなぞをこの先輩の前に持ち出した。
「青山君、あれで老先生(平田|鉄胤《かねたね》のこと)も、もう十年若くして置きたかったね。」と正香は盃を重ねながら言った。「明治御一新の声を聞いた時に、先生は六十七歳の老年だからね。先生を中心にした時代は――まあ、実際の話が、明治の三年までだね。」
「あの年の六月には、先生も大学の方をお辞《や》めになったように聞いていますが。」と半蔵も言って見る。
「見たまえ。」という正香の目はかがやいて来た。「われわれはお互いに十年の後を期した。こんなに早く国学者の認められる時が来ようとも思わなかった。そりゃ、この大政の復古が建武中興の昔に帰るようなことであっちゃならない、神武《じんむ》の創業にまで帰って行くことでなくちゃならない――ああいうことを唱え出したのも、あの玉松あたりさ。復古はお互いの信条だからね。しかし君、復古が復古であるというのは、それの達成せられないところにあるのさ。そう無造作にできるものが、復古じゃない。ところが世間の人はそうは思いませんね。あの明治三年あたりまでの勢いと来たら、本居平田の学説も知らないものは人間じゃないようなことまで言い出した。それこそ、猫《ねこ》も、杓子《しゃくし》もですよ。篤胤先生の著述なぞはずいぶん広く行なわれましたね。ところが君、その結果は、というと、何が『古事記伝』や『古史伝』を著わした人たちの真意かもよくわからないうちに、みんな素通りだ。いくら、昨日の新は今日の旧だというような、こんな潮流の急な時勢でも、これじゃ――まったく、ひどい。」
「暮田さん、」と半蔵はほんのりいい色になって来た正香の顔をながめながら、さらに話しつづけた。「わたしなぞは、これからだと思っていますよ。」
「それさ。」
「われわれはまだ、踏み出したばかりじゃありませんかね。」
「君の言うとおりさ。今になってよく考えて見ると、何十年かかったらこの御一新がほんとうに成就されるものか、ちょいと見当がつかない。あれで鉄胤先生なぞの意志も、政治を高めるというところにあったろうし、同門には越前《えちぜん》の中根雪江《なかねゆきえ》のような人もあって、ずいぶん先生を助けもしたろうがね、いかな先生も年には勝てない。この御一新の序幕の中で、先生も老いて行かれたようなものさね。まだそれでも、明治四年あたりまではよかった。版籍を奉還した諸侯が知事でいて、その下に立つ旧藩の人たちが民政をやった時分には、すくなくも御一新の成就するまではと言ったものだし、また実際それを心がけた藩もあった。いよいよ廃藩の実行となると、こいつがやかましい。江戸大城の明け渡しには異議なしでも、自分らの城まで明け渡せとなると、中には考えてしまった藩もあるからね。一方には郡県の政治が始まる。官吏の就職運動が激しくなる。成り上がり者の官吏の中にはむやみといばりたがるような乱暴なやつが出て来る。さっきも君の話のように、なかなか地方の官吏にはその人も得られないのさ。国家の事業は窮屈な官業に混同されてしまって、この調子で行っ
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