せた。当時は新政府の信用もまだ一般に薄かった。沿道諸藩の向背《こうはい》のほども測りがたかった。何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならないとして、あの東山道総督執事が地方人民に応援を求める意味の布告を発したことは一度や二度にとどまらなかった。このたび進発の勅命をこうむったのは、一方に諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたき叡旨《えいし》であるぞと触れ出されたのもあの時であった。徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来|苛政《かせい》に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなどは、遠慮なくその旨《むね》を本陣に届けいでよと言われ、彼も本陣役の一人として直接その衝に当たったことはまだ彼には昨日のことのようでもある。彼半蔵のような愚直なものが忘れようとして忘れられないのは、民意の尊重を約束して出発したあの新政府の意気込みであった。彼が多くの街道仲間の不平を排しても、本陣を捨て、問屋を捨て、庄屋を捨てたというのは、新政府の代理人ともいうべき官吏にこの約束を行なってもらいたいからであった。
小松の影を落とした川の中淵《なかぶち》を右手に望みながら、また彼は歩き出した。彼の心は、日ごろから嘆願書提出のことに同意してくれているが、しかし福島支庁の権判事《ごんはんじ》がかわりでもしないうちはだめだというらしいあの寿平次の方へ行った。
彼は言って見た。
「相変わらず、寿平次さんは高見の見物だろうか。」
彼の心は隣家伏見屋の伊之助の方へも行った。
「伊之助さんか。あの人は目をつぶっておれと言う。このおれにも――見るなと言う。」
彼の心はまた、村の万福寺の松雲和尚の方へも行った。
「和尚さまと来たら、用はないと言うそうな。」
しかし、彼はあの松雲たりとも禅僧らしく戦おうとはしていることを知っていた。
五月の森の光景は行く先にひらけた。檜《ひのき》欅《けやき》にまじる雑木のさわやかな緑がまたよみがえって、その間には木曾路らしいむらさきいろの山つつじが咲き乱れていた。全山の面積およそ三十八万町歩あまりのうち、その十分の九にわたるほどの大部分が官有地に編入され、民有地としての耕地、宅地、山林、それに原野をあわせてわずかにその十分の一に過ぎなくなった。新しい木曾谷の統治者が旧尾州領の山地を没取するのに不思議はないというような理屈からこれは来ているのか、郡県政治の当局者が人民を信じないことにかけては封建時代からまだ一歩も踏み出していない証拠であるのか、いずれとも言えないことであった。ともあれ、いかに支庁の役人が督促しようとも、このまま山林規則のお請けをして、泣き寝入りにすべきこととは彼には思われなかった。父にできなければ子に伝えても、旧領主時代から紛争の絶えないようなこの長い山林事件をなんらかの良い解決に導かないのはうそだとも思われた。須原《すはら》から三留野《みどの》、三留野から妻籠へと近づくにつれて、山にもたよることのできないこの地方の前途のことがいろいろに考えられて来た。家をさして帰って行くころの彼はもはや戸長ででもなかった。
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第九章
一
八月の来るころには、娘お粂《くめ》が結婚の日取りも近づきつつあった。例の木曾谷《きそだに》の山林事件もそのころになれば一段落を告げるであろうし、半蔵のからだもいくらかひまになろうとは、春以来おまんやお民の言い合わせていたことである。かねてこの縁談の仲にはいってくれた人が伊那《いな》の谷から見えて、吉辰良日《きっしんりょうじつ》のことにつき前もって相談のあったおりに、青山の家としては来たる九月のうちを選んだのもそのためであった。さて、その日取りも次第に近づいて見ると、三十三か村の人民総代として半蔵らが寝食も忘れるばかりに周旋奔走した山林事件は意外にもつれた形のものとなって行った。
もとより、福島支庁から言い渡された半蔵の戸長免職はきびしい督責を意味する。彼が旧|庄屋《しょうや》(戸長はその改称)としての生涯《しょうがい》もその時を終わりとする。彼も御一新の成就《じょうじゅ》ということを心がけて、せめてこういう時の役に立ちたいと願ったばっかりに、その職を失わねばならなかった。親代々から一村の長として、百姓どもへ伝達の事件をはじめ、平生|種々《さまざま》な村方の世話|駈引《かけひき》等を励んで来たその役目もすでに過去のものとなった。今は学事掛りとしての仕事だけが彼の手に残った。彼の継母や妻にとっても、これは思いがけない山林事件の結果である。娘お粂が結婚の日取りの近づいて来たのは、この青山一家に旧《ふる》い背景の消えて行く際だ。
仲人《なこうど》参上の節は供|一人《ひとり》、右へ御料理がましいことは御無用に願いたし。もっとも、神酒《みき》、二汁《にじゅう》、三菜、それに一泊を願いたし。これはその年の二月に伊那南殿村の稲葉家から届いた吉辰申し合わせの書付の中の文句である。お民はそれを先方から望まれるとおりにした上、すでに結納《ゆいのう》のしるしまでも受け取ってある。それは帯地一巻持参したいところであるが、間に合いかねるからと言って、白無垢《しろむく》一反、それに酒の差樽《さしだる》一|荷《か》を祝って来てある。これまでにお粂の縁談をまとめてくれたのもほかならぬ姑《しゅうとめ》おまんであり、その人は半蔵にとっても義理ある母であるのに、かんじんのお粂はとかく結婚に心も進まなかった。のみならず、この娘を懇望する稲葉家の人たちに、半蔵の戸長免職がどう響くかということすら、お民には気づかわれた。そういうお民の目に映る娘は、ますます父半蔵に似て行くような子である。弟の宗太《そうた》なぞ、明治四年のころはまだ十四歳のうら若さに当時名古屋県の福島出張所から名主《なぬし》見習いを申し付けられたほどで、この子にこそ父の俤《おもかげ》の伝わりそうなものであるが、そのことがなく、かえって姉娘の方にそれがあらわれた。お民は、成長したお粂の後ろ姿を見るたびに、ほんとに父親にそっくりなような娘ができたと思わずにいられない。半蔵は熱心な子女の教育者だから、いつのまにかお粂も父の深い感化を受け、日ごろ父の尊信する本居《もとおり》、平田《ひらた》諸大人をありがたい人たちに思うような心を養われて来ている。お粂は性来の感じやすさから、父が戸長の職を褫《は》がれ青ざめた顔をして木曾福島から家に帰って来た時なぞも、彼女の小さな胸を傷《いた》めたことは一通りでなかった。彼女は、かずかずの数奇《すき》な運命に娘心を打たれたというふうで、
「わたしはこうしちゃいられないような気がする。」
と言って、母のそばによく眠らなかったほどの娘だ。
しかし、お民はお民なりに、この娘を励まし、一方には強い個性をもった姑との間にも立って、戸長免職後の半蔵を助けながら精いっぱい働こうと思い立っていた。以前にお民が妻籠《つまご》旧本陣を訪《たず》ねたおり、おばあさんや兄夫婦のいるあの生家《さと》の方で見て来たことは、自給自足の生活がそこにも始まっていることであった。お民はそれを夫の家にも応用しようとした。彼女は周囲を見回した。もっと養蚕を励もうとさえ思えば、広い玄関の次の間から、仲の間、奥の間まで、そこには蚕の棚《たな》を置くこともできるような旧本陣の部屋《へや》部屋が彼女を待っていた。髪につける油を自分で絞ろうとさえ思えば、毎年表庭の片すみに実を結ぶ古い椿《つばき》を役に立てることもできた。四人の子を控えた母親として、ことにまだ幼い二人《ふたり》のものを無事に育てたいとの心願から、お民もその決心に至ったのである。彼女はまた持って生まれた快活さで、からだもよく動く。頬《ほお》の色なぞはつやつやと熟した林檎《りんご》のように紅《あか》い。
ある日、お民は娘が嫁入りじたくのために注文して置いた染め物の中にまだ間に合わないもののあるのをもどかしく思いながら、取り出す器物の用があって裏の土蔵の方へ行った。入り口の石段の上には夫の履物《はきもの》が脱いである。赤く錆《さ》びた金網張りの重い戸にも大きな錠がはずしてある。ごとごと二階の方で音がするので、何げなくお民は梯子段《はしごだん》を登って行って見た。青山の家に伝わる古刀、古い書画の軸、そのほか吉左衛門が生前に蒐集《しゅうしゅう》して置いたような古い茶器の類なぞを取り出して思案顔でいる半蔵をそこに見つけた。そこは板敷きになった階上で、おまんの古い長持《ながもち》や、お民が妻籠から持って来た長持なぞの中央に置き並べてあるところだ。何十年もかかって半蔵の集めた和漢の蔵書も壁によせて積み重ねてあるところだ。その時、お民は諸方の旧家に始まっている売り立てのうわさに結びつけて、そんな隠れたところに夫が弱味をのぞいて見た時は、胸が迫った。
二
土蔵の建物と裏二階の隠居所とは井戸の方へ通う細道一つへだてて、目と鼻の間にある。お民はその足で裏二階の方に姑を見に行った。娘を伊那へ送り出すまで、何かにつけてお民が相談相手と頼んでいるのは、おまんのほかになかったからで。
「お母《っか》さん。」
と声をかけると、ちょうどおまんは小用でも達《た》しに立って行った時と見えて、日ごろ姑がかわいがっている毛並みの白い猫《ねこ》だけが麻の座蒲団《ざぶとん》の上に背を円《まる》くして、うずくまっていた。二間を仕切る二階の部屋《へや》の襖《ふすま》も取りはずしてあるころで、すべて吉左衛門が隠居時代の形見らしく、そっくり形も崩《くず》さずに住みなしてある。そこいらには、針仕事の好きな姑が孫娘のために縫いかけた長襦袢《ながじゅばん》のきれなぞも取りちらしてあって、そこにもお粂が結婚の日取りの近づいたことを語っている。古い針箱のそばによせて、小さな味醂《みりん》の瓶《かめ》の片づけずに置いてあるのもお民をほほえませた。姑のような年取った女の飲む甘いお酒が押入れの中に隠してあることをお民も知っているからであった。
そのうちに、おまんはお民のいるところへ戻《もど》って来て、
「お民か。お前はちょうどよいところへ来てくれた。稲葉のおそのさん(おまんが里方の夫人)へはわたしから返事を出して置いたよ。あのおそのさんもお前、いろいろ心配していてくれると見えてね、馬籠《まごめ》から上伊那の南殿村まで女の足では三日路というくらいのところだから、わざわざ諸道具なぞ持ち運ぶには及ばん、お粂の箪笥《たんす》、長持、針箱の類はこちらで取りそろえて置くと言ってよこしたさ。手洗い桶《おけ》、足洗い桶なぞもね。ごらんな、なんとかこちらからも言ってやらなけりゃ悪いから、御承知のとおりな遠路《とおみち》なことじゃあるし、お民も不調法者で、したくも行き届かないが、まあ万事よろしく頼む――そうわたしは返事を書いてやったよ。」
「どうでしょう、お母《っか》さん、今度の山林事件が稲葉へは響きますまいか。うちじゃ、もう庄屋でも、戸長でもありませんよ。」とお民が言って見る。
「そんな稲葉の家じゃあらすかい。いったん結納の品まで取りかわして、改めて親類の盃《さかずき》でもかわそうと約束したものが、家の事情でそれを反古《ほご》にするような水臭い人たちなら、最初からわたしはお粂の世話なんぞしないよ。あのおそのさんはじめ、それは義理堅い、正しい人だからね。」
おまんはその調子だ。
ここですこしこの半蔵が継母のことを語って置くのも、山国の婦人というものを知る上にむだなわざではないだろう。おまんも年は取って、切りさげた髪はもはや半ば白かったが、あの水戸《みと》浪士の同勢がおのおの手にして来た鋭い抜き身の鎗《やり》や抜刀をも恐れずにひとりで本陣の玄関のところへ応接に出たような、その気象はまだ失わずにある。そういうおまんの教養は、まったく彼女の母から来ている。母は、高遠《たかとお》の内藤大和守《ないとうやまとのかみ》の藩中で、坂本流砲術の創始者として知られた坂本孫四郎の娘にあたる。ゆえあって母は初婚の夫の家を去り、その
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