うでしょうな、あの時青山さんにお清書なぞを見ていただいた忰がことし十八になりますもの。」
 こんな話も出た。
 やがて半蔵は身を浄《きよ》め、笠《かさ》草鞋《わらじ》などを宿に預けて置いて、禰宜の子息《むすこ》と連れだちながら里宮|参詣《さんけい》の山道を踏んだ。
「これで春先の雉子《きじ》の飛び出す時分、あの時分はこのお山もわるくありませんよ。」
 十年の月日を置いて来て見ると、ほんの子供のように思われていた禰宜の子息が、もはやこんなことを半蔵に言って見せる若者だ。
 宗教改革の機運が動いた跡はここにも深いものがある。半蔵らが登って行く細道は石の大鳥居の前へ続いているが、路傍に両部時代の遺物で、全く神仏を混淆《こんこう》してしまったような、いかがわしい仏体銅像なぞのすでに打ち倒されてあるのを見る。その辺の石碑や祠《ほこら》の多くは、あるものは嘉永、あるものは弘化《こうか》、あるものは文久年代の諸国講社の名の彫り刻まれてあるものだ。さすがに多くの門弟を引き連れて来て峻嶮《しゅんけん》を平らげ、山道を開き、各国に信徒を募ったり、講中を組織したりして、この山のために心血をささげた普寛、神山、一徳の行者らの石碑銅像には手も触れてない。そこに立つ両部時代の遺物の中にはまた、十二権現とか、不動尊とか、三面六|臂《ぴ》を有し猪《いのしし》の上に踊る三宝荒神とかのわずかに破壊を免れたもののあるのも目につく。
 さらに二人は石の大鳥居から、十六階、二十階より成る二町ほどの石段を登った。左右に杉《すぎ》や橡《とち》の林のもれ日《び》を見て、その長い石段を登って行くだけでも、なんとなく訪《おとな》うものの心を澄ませる。何十丈からの大岩石をめぐって、高山の植物の間から清水《しみず》のしたたり落ちるあたりは、古い社殿のあるところだ。大己貴《おおなむち》、少彦名《すくなびこな》の二柱《ふたはしら》の神の住居《すまい》がそこにあった。
 里宮の内部に行なわれた革新は一層半蔵を驚かす。この社殿を今見る形に改めた造営者であり木曾福島の名君としても知られた山村|蘇門《そもん》の寄進にかかる記念の額でも、例の二つの天狗《てんぐ》の面でも、ことに口は耳まで裂け延びた鼻は獣のそれのようで、金胎《こんたい》両部の信仰のいかに神秘であるかを語って見せているようなその天狗の女性の方の白粉《しろいもの》をほどこした面でも、そこに残存するものはもはや過去の形見だ。一切の殻《から》が今はかなぐり捨てられた。護摩《ごま》の儀式も廃されて、白膠木《ぬるで》の皮の燃える香気もしない。本殿の奥の厨子《ずし》の中に長いこと光った大日如来《だいにちにょらい》の仏像もない。神前の御簾《みす》のかげに置いてあった経机もない。高山をその中心にし、難行苦行をその修業地にして、あらゆる寒さ饑《ひも》じさに耐えるための中世的な道場であったようなところも、全く面目を一新した。過去何百年の山王を誇った御嶽大権現の山座は覆《くつがえ》されて、二柱の神の古《いにしえ》に帰って行った。杉と檜の枝葉を通して望まれる周囲の森と山の空気、岩づたいに落ちる細い清水の音なぞは、社殿の奥を物静かにする。しばらく半蔵はそこに時を送って、自分の娘のためにも祷《いの》った。
 禰宜のもとに戻《もど》ってから、半蔵は山でもながめながらその日一日王滝の宿に寝ころんで行くことにきめた。宮下の主人は馳走《ちそう》ぶりに、風呂《ふろ》でも沸かそうから、寒詣《かんもう》でや山開きの季節の客のために昔から用意してある行者宿の湯槽《ゆぶね》にも身を浸して、疲れを忘れて行けと言ってくれた。
 午後には五平の方から半蔵を訪《たず》ねて来て、短冊《たんざく》を取り寄せたり、互いに歌をよみかわしたりするような、ささやかな席が開けた。そこへ紅《あか》い毛氈《もうせん》を持ち込み、半折《はんせつ》の画箋紙《がせんし》なぞをひろげ、たまにしか見えない半蔵に何か山へ来た形見を残して置いて行けと言い出すのは禰宜だ。子息も来て、そのそばで墨を磨《す》った。そこいらには半蔵が馬籠から持って来た歌書なども取り散らしてある。簀巻《すま》きにして携えて来た筆も置いてある。求めらるるままに、彼は自作の旧《ふる》い歌の一つをその紙の上に書きつけた。
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おもふどちあそぶ春日《はるひ》は青柳《あおやぎ》の千条《ちすじ》の糸の長くとぞおもふ    半蔵
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 五平はそのそばにいて、
「これはおもしろく書けた。」
「でも、この下の句がわたしはすこし気に入らん。」と半蔵は自分で自分の書いたものをながめながら、「思うという言葉が二つ重なって、どうも落ちつかない。」
「そんなことはない。」
 と五平は言っていた。
 時には、半蔵は席を離れて、ながめを自由にするためにその座敷の廊下のところへ出た。山里の中の山里ともいうべき御嶽のすその谷がその位置から望まれる。そこへも五平が立って来て、谷の下の方に遠く光る王滝川を半蔵と一緒にながめた。木と木の梢《こずえ》の重なり合った原生林の感じも深く目につくところで、今はほとんど自由に入山《いりやま》伐木の許さるる場処もない。しかし、半蔵は、他に客のあるけはいもするこの禰宜の家で五平と一緒になってからは、総代仲間の話なぞを一切口にしなかった。五平はまた五平で、そこの山、ここの谷を半蔵にさして見せ、ただ風景としてのみ、生まれ故郷を語るだけであった。
 もはや、温暖《あたたか》い雨は幾たびとなく木曾の奥地をも通り過ぎて行ったころである。山鶯《やまうぐいす》もしきりになく。五平が贄川《にえがわ》での再会を約して別れて行った後、半蔵はひとり歌書などを読みちらした。夕方からはことに春先のような陽気で、川の流れを中心にわき立つ靄《もや》が谷をこめた。そろそろ燈火《あかり》のつく遠い農家をながめながら、馬籠を出しなに腰にさして来た笛なぞを取り出した時は、しばらく彼もさみしく楽しい徒然《つれづれ》に身をまかせていた。
 翌朝は早く山をたつ人もある。遠い国からの参詣者《さんけいしゃ》の中には、薄暗いうちから起きて帰りじたくをはじめる講中仲間もある。着物も白、帯も白、鉢巻《はちまき》も白、すべて白ずくめな山の巡礼者と前後して、やがて半蔵も禰宜の家の人たちに別れを告げて出た。彼が帰って行く山道の行く先には、手にする金剛杖《こんごうづえ》もめずらしそうな人々の腰に着けた鈴の音が起こった。王政第六の春もその四月ころには、御嶽のふもとから王滝川について木曾福島の町まで出ると、おそらく地方の発行としては先駆と言ってよい名古屋本町通りの文明社から出る木版彫刻半紙六枚の名古屋新聞が週報ながらに到着するころである。時事の報道を主とする伝聞雑誌のごとき体裁しかそなえていないものではあるが、それらの週報は欧米教育事業の視察の途に上った旧名古屋藩士、田中|不二麿《ふじまろ》が消息を伝えるころである。過ぐる四年の十一月十日、特命全権の重大な任務を帯びて日本を出発した岩倉大使の一行がどんな土産《みやげ》をもたらして欧米から帰朝するかは、これまた多く人の注意の的《まと》となっていた時だ。その一行、随員従者留学生等総員百七名の中に、佐賀県人の久米邦武《くめくにたけ》がある。この人は、ただ文書のことを受け持つために大使の随行を命ぜられたばかりでなく、特に政府の神祇省《じんぎしょう》から選抜されて一行に加わった一人の国学者としても、よろしくその立場から欧米の文明を観察せよとの内意を受け、新興日本の基礎を作る上に国学をもってする意気込みであるとのうわさは、ことに平田一門の人たちに強い衝動を与えずにはおかなかった。地方一戸長としての半蔵なぞが隠れた草叢《くさむら》の間に奔走をつづけていて、西をさして木曾路を帰って行くころは、あの本居《もとおり》平田諸大人の流れをくむもののおそかれ早かれ直面しなければならないようなある時が彼のような後輩をも待っていたのである。

       五

 五月十二日も近づいたころ、福島支庁からの召喚状が馬籠にある戸長役場の方に届いた。戸長青山半蔵あてで。
 半蔵は役場で一通り読んで見た。それには、五月十二日の午前十時までに当支庁に出頭せよとある。ただし代人を許さない。言い渡すべき件があるから、この召喚状持参の上、自身出頭のこととある。彼は自宅の方に持ち帰って、さらによく読んで見た。この呼び出しに応ずると、遠山五平らに約束して置いたことが果たせない。その日を期し、総代四人のものが勢ぞろいして本庁の方へ同行することもおぼつかない。のみならず、彼はこの召喚状を手にして、ある予感に打たれずにはいられなかった。
 とりあえず、彼は福島へ呼び出されて行くことを隣家の伊之助に告げ、王滝の方へも使いを出して置いて、戸長らしい袴《はかま》を着けるのもそこそこに、また西のはずれから木曾路をたどった。この福島行きには、彼は心も進まなかった。
 筑摩県支庁。そこは名古屋県時代の出張所にあててあった本営のまま、まだ福島興禅寺に置いてある。街道について福島の町にはいると、大手橋から向かって右に当たる。指定の刻限までに半蔵はその仮の役所に着いた。待つこと三十分ばかりで、彼は支庁の官吏や下役などの前に呼び出された。やがて、掛りの役人が一通の書付を取り出し、左の意味のものを半蔵に読み聞かせた。
「今日限り、戸長免職と心得よ。」
 とある。
 はたして、半蔵の呼び出されたのは他の用事でもなかった。もっとも、免職は戸長にとどまり、学事掛りは従前のとおりとあったが、彼は支庁の人たちを相手にするのは到底むだだと知っていた。実に瞬間に、彼も物を見定めねばならなかった。一礼して、そのまま引き下がった。
 興禅寺の門を出て、支庁から引き取って行こうとした時、半蔵はその辺の屋敷町に住む旧士族に行きあい、わずかの挨拶《あいさつ》の言葉をかわした。その人は、福島にある彼の歌の友だちで、香川景樹《かがわかげき》の流れをくむものの一人《ひとり》で、何か用達《ようた》しに町を出歩いているところであったが、彼の顔色の青ざめていることが先方を驚かした。歩けば歩くほど彼は支庁の役人から戸長免職を言い渡された時のぐっと徹《こた》えたこころもちを引き出された。言うまでもなく、村方《むらかた》総代仲間が山林規則を過酷であるとして、まさに筑摩県庁あての嘆願書を提出するばかりにしたくをととのえたことが、支庁の人たちの探るところとなったのだ。彼はその主唱者とにらまれたのだ。たとえようのないこころもちで、彼は山村氏が代官屋敷の跡に出た。瓦解《がかい》の跡にはもう新しい草が見られる。ここが三|棟《むね》の高い鱗葺《こけらぶ》きの建物の跡か、そこが広間や書院の跡かと歩き回った。その足で彼は大手橋を渡った。橋の上から見うる木曾川の早い流れ、光る瀬、その河底《かわぞこ》の石までが妙に彼の目に映った。
 笠《かさ》草鞋《わらじ》のしたくもそこそこに帰路につこうとしたころの彼は、福島での知人の家などを訪《たず》ねる心も持たなかった人である。街道へは、ぽつぽつ五月の雨が来る。行く先に残った花やさわやかな若葉に来る雨は彼の頬《ほお》にも耳にも来たが、彼はそれを意にも留めずに、季節がら吹き降りの中をすたすた上松《あげまつ》まで歩いた。さらに野尻《のじり》まで歩いた。その晩の野尻泊まりの旅籠屋《はたごや》でも、彼はよく眠らなかった。
 翌日の帰り道には、朝から晴れた。青々とした空の下へ出て行って、ようやく彼も心の憤りを沈めることができた。いろいろ思い出すことがまとまって彼の胸に帰って来た。
「御一新がこんなことでいいのか。」
 とひとり言って見た。時には彼は路傍の石の上に笠を敷き、枝も細く緑も柔らかな棗《なつめ》の木の陰から木曾川の光って見えるところに腰掛けながら考えた。
 消えうせべくもない感銘の忘れがたさから、彼はあの新時代の先駆のような東山道軍が岩倉公子を総督にして西からこの木曾街道を進んで来た時の方に思いを馳《は》
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