の西洋人があった。それ異人が来たと言って、そこいらに腰掛けながら休んでいた旅人までが目を円《まる》くする。前からも後ろからものぞきに行くものがある。もはや、以前のような外人殺傷ざたもあまり聞こえなくなったが、まだそれでも西洋人を扱いつけないものはどんな間違いを引き起こさまいものでもないと言われ、外人が旅行する際の内地人の心得書なるものが土屋総蔵時代に馬籠の村へも回って来ている。それを半蔵も読んで見たことはある。しかし彼の覚えているところでは、この木曾路にまだ外人の通行者のあったためしを聞かない。試みに彼は通弁の方へ行って、自分がこの地方の戸長の一人であることを告げ、初めて見る西洋人の国籍、出発地、それから行く先などを尋ねた。生まれはイギリスの人で、香港《ホンコン》から横浜の方に渡来したが、十月には名古屋の方に開かれるはずの愛知県英語学校の準備をするため、教師として雇われて行く途中にあるという。東海道回りで赴任しないのは、日本内地の旅が試みたいためであるともいう。そのイギリス人は何を思ったか、いきなり上衣のかくしにいれている日本政府の旅行免状を出して示そうとするから、彼はその必要のないことを告げた。そのイギリス人はまた、彼の職業を通弁から聞いて、この先の村は馬を停《と》めるステーションのあるところかと尋ねる。彼は言葉も通じないから、先方で言おうとすることをどう解していいかわからなかったが、人馬|継立《つぎた》ての駅ならこの山間に十一か所あると答え、かつては彼もその駅長の一人であったことを告げた。
通弁を勤める男も慣れたものだ。異人の言葉を取り次ぐことも、旅の案内をすることも、すべて通弁がした。その男は外国人を連れて内地を旅することのまだまだ困難な時であることを半蔵に話し、人家の並んだ宿場風の町を通るごとに多勢ぞろぞろついて来るそのわずらわしさを訴えた。
「へえ、名物あんころ餅《もち》でございます。」
と言って休み茶屋の婆《ばあ》さんが手造りにしたやつを客の間へ配りに来た。唖《おし》の旅行者のような異人は通弁からその説明を聞いたぎり、試食しようともしなかった。
間もなく半蔵はこの御休処《おやすみどころ》とした看板のかかったところを出た。その日の泊まりと定めた福島にはいって懇意な旅籠屋《はたごや》に草鞋《わらじ》をぬいでからも、桟《かけはし》の方で初めて近く行って見た思いがけない旅の西洋人の印象は容易に彼から離れなかった。過ぐる嘉永《かえい》六年の夏に、東海道浦賀の宿、久里《くり》が浜《はま》の沖合いにあらわれたもの――その黒船の形を変えたものは、下田《しもだ》へも着き、横浜へも着き、三百年の鎖国の事情も顧みないで進み来るような侮りがたい力でもって、今は早瀬を上る鮎《あゆ》のようにこんな深い山間までも入り込んで来た。昨日の黒船は、今日の愛知県の教師だ。これには彼も驚かされた。
福島から王滝まで、翌日もまた半蔵は道をつづけ、行人橋《ぎょうにんばし》から御嶽山道について常磐《ときわ》の渡しへと取り、三沢というところで登山者のために備えてある筏《いかだ》を待ち、その渡しをも渡って、以前にも泊めてもらった王滝の禰宜《ねぎ》の家の人たちの声を久しぶりで聞いた。
「お客さまだぞい。馬籠の本陣からおいでたげな。」
「おゝ、青山さんか。これはおめずらしい。」
王滝の戸長遠山五平は禰宜の家からそう遠くない住居《すまい》の方で、この半蔵が自分の村に到着するのを今日か明日かと心待ちに待ちうけているところであった。山林事件の嘆願書提出については、五平は最初から半蔵の協力者で、谷中総代十五名の中でも贄川《にえがわ》、藪原《やぶはら》二か村の戸長を語らい合わせ、半蔵と共に名古屋県時代の福島出張所へも訴え出た仲間である。今度二度目の嘆願がこれまでにしたくの整ったというのも、上松《あげまつ》から奥筋の方を受け持った五平の奔走の力によることが多かった。それもいわれのないことではない。この人は先祖代々御嶽の山麓《さんろく》に住み、王滝川のほとりに散在するあちこちの山村から御嶽裏山へかけての地方《じかた》の世話を一手に引き受けて、木曾山の大部分を失いかけた人民の苦痛を最も直接に感ずるものの一人もこの旧《ふる》い庄屋だからであった。王滝は馬籠あたりのように木曾街道に添う位置にないから、五平の家も本陣問屋は兼ねず、したがって諸街道の交通輸送の事業には参加しなかったが、人民と土地とのことを扱う庄屋としては尾州代官の山村氏から絶えず気兼ねをされて来たほどの旧い家柄でもある。
半蔵が禰宜《ねぎ》の家に笠《かさ》や草鞋《わらじ》をぬいで置いて、それから訪《たず》ねて行った時、五平の言葉には、
「青山さん、わたしのように毎日山に対《むか》い合ってるものは、見ちゃいられませんな。これじゃ、木曾の人民も全くひどい。まるで水に離れた魚のようなものです。」
というと、いかにもこの人は適切なたとえを言い当てたように聞こえるが、その実、魚にはあまり縁がない。水に住むと言えば、この人に親しみのあるのは、池に飼う鯉《こい》か、王滝川まで上って来る河魚《かわうお》ぐらいに限られている。たまにこの山里へかつがれて来る塩辛い青串魚《さんま》なぞは骨まで捨てることを惜しみ、炉の火にこんがりとあぶったやつを味わって見るほど魚に縁が遠い。そのかわり、谷へ来る野鳥の類なら、そのなき声をきいただけでもすぐに言い当てるほど多くの鳥の名を諳記《そらん》じていて、山林の枯れ痛み、風折れ、雪折れ、あるいは枝卸しなどのことには精通していた。
いったい、こんな山林事件を引き起こした木曾谷に、これまで尾州藩で置いた上松の陣屋があり、白木番所があり、山奉行があり、山守《やまもり》があり、留山見回りなぞがあって、これほど森林の保護されて来たというはなんのためか。そこまで話を持って行くと、五平にも半蔵にもそう一口には物が言えなかった。尾州藩にして見ると、年々木曾山から切り出す良い材木はおびただしい数に上り、同藩の財源としてもこの森林地帯を重くみていたように世間から思われがちであるが、その実、河水を利用する檜材の輸送には莫大《ばくだい》な人手と費用とを要し、小谷狩《こたにがり》、大谷狩から美濃の綱場を経て遠い市場に送り出されるまで、これが十露盤《そろばん》ずくでできる仕事ではないという。それでもなおかつ尾州藩が多くの努力を惜しまなかったというは、山林保護の精神から出たことは明らかであるが、一つには木曾川下流の氾濫《はんらん》に備えるためで、同藩が治水事業に苦しんで来た長い歴史は何よりもその辺の消息を語っているとも言わるる。もっとも、これは川下の事情にくわしい人の側から言えることで、遠く川上の方の山の中に住み慣れた地方《じかた》の人民の多くはそこまでは気づかなかった。ただ、この深い木曾谷が昼でも暗いような森林におおわれた天然の嶮岨《けんそ》な難場《なんば》であり、木曾福島に関所を置いた昔は鉄砲を改め女を改めるまでに一切の通行者の監視を必要としたほどの封建組織のためにも、徳川直属の代官によって護《まも》られ、尾州大藩によっても護られて来た東山道中の特別な要害地域であったろうとは、半蔵らにも考えられることであった。
五平は半蔵の方を見て、
「さあ、これが尾州の方へ聞こえたら、旧藩の人たちもどう言いますかさ。支庁のやり口が本当で、木曾の人民の方が無理だと言いますかさ。なんでもわたしの聞いたところじゃ、版籍奉還ということはだいぶ話が違う。版地民籍の奉還と言いましたら、土地も人民も朝廷へ返上することだと、わたしは承知してます。万民を王化に浴させたい。あの尾州あたりが他藩に率先して朝廷へ返上したのも、その趣意から出たことじゃありませんか。こんなにけが人を出してもかまわないつもりで、旧領の山地を返上したわけじゃありますまいに。」
こんな話の出た後、五平は半蔵の方から預かって置いた山林事件用の書類をそこへ取り出した。半蔵の起草した筑摩県庁あての嘆願書は十五人の総代の手を回って、五平の手もとまで返って来ている。藪原村の戸長を筆頭にして、一同の署名と調印とを済ましたものがそこにある。嘆願書とした文字の上には、うやうやしく「上」と記し「恐れながら書付をもって願い上げ奉り候《そうろう》御事」の書き出しが読まれる。従来木曾谷山地の処置については享保年度からの名古屋一藩かぎりの御制度であるから、今般の御改革で郡県の政治を行なわれるについては本県の管下も他郷一般の処置を下し置かれたいと述べてある。別に年来の情実を本庁の官吏によく知ってもらうため、谷中の人民から旧領主に訴えたことのある古い三通の願書の写しをも添えることにしてある。
「この古い願書の写しを添えて出すことが大切です。」
「さようだ。今日にはじまった問題でもないことがわかりますで。」
二人《ふたり》はこんな言葉をかわした。いよいよ来たる五月の十二日を期して再度の嘆願書を差し出すことから、その前日までに贄川《にえがわ》に集まって、四人の総代だけが一同に代わり松本へ出頭するまでの手はずも定《き》まった。もし本庁の官吏から今日人民の難渋する事情を問いただされたら、四人のもの各自に口頭をもって答えよう、支庁主任のさしずによる山林規則には谷中の苦情が百出して、総代においても今もってお請けのできかねる事情を述べようと申し合わせた。
五平は言った。
「この嘆願書の趣意は、官有林を立て置かれることに異存はない。御用材|伐《き》り出し等の備え場も置かねばなるまいから、それらの官有林にはきびしくお取り締まりの制度を立てて、申し渡されるなら、きっと相守る。そのかわり明山《あきやま》は人民に任せてくれ。新規則以来、人民私有の山地まで官有に併《あわ》せられた場処も多くあるが、これも元々どおりに解かれたい。大体にこういうことになりましょう。つまり――一般公平の御処置を仰ぎたい。今のうちに官民協力して、前途百年の方針を打ち建てて置きたい。享保以前の古《いにしえ》に復したいということですな。」
ここへ来るまで、半蔵は野尻《のじり》の旅籠屋《はたごや》でよく眠らず、福島でもよく眠らずで、遠山五平方から引き返して禰宜《ねぎ》の家に一晩泊まった翌朝になって、ひどく疲れが出た。禰宜宮下の主人が里宮の社殿のあるところまで朝勤めに通《かよ》って行って、大太鼓を打ち鳴らしてからまた数町ほどの山道を帰るころでも、彼はゆっくり休んでいた。家の人の雨戸を繰りに来る音を聞くようになって、ようやく彼は寝床からはい出した。
「だいぶごゆっくりでございますな。」
と言って、宮下の細君が熱い茶に塩漬《しおづ》けの小梅を添えて置いて行ってくれるころが、彼には朝だった。
里宮の神職と講中《こうじゅう》の宿とを兼ねたこの禰宜の古い家は、木曾福島から四里半も奥へはいった山麓《さんろく》の位置にある。木曾山のことを相談する必要が生じてから、過ぐる年も半蔵は王滝へ足を運び、遠山の家を訪《と》うおりには必ずこの禰宜のところへ来て泊まったが、来て見るたびに変わって行く行者《ぎょうじゃ》宿の光景が目につく。ここはもはや両部神道の支配するところでもない。部屋《へや》の壁の上に昔ながらの注連縄《しめなわ》なぞは飾ってあるが、御嶽山《おんたけさん》座王大権現《ざおうだいごんげん》とした床の間の軸は取り除かれて、御嶽三社を祀《まつ》ったものがそれに掛けかわっている。
「青山さん、まあきょうは一日ゆっくりなすってください。お宮の方へ御案内すると言って、忰《せがれ》のやつもしたくしています。」
と禰宜も彼を見に来て言った。過ぐる文久《ぶんきゅう》三年、旧暦四月に、彼が父の病を祷《いの》るためここへ参籠《さんろう》にやって来た日のことは、山里の梅が香と共にまた彼の胸に帰って来た。あの時同伴した落合の勝重なぞはまだ前髪をとって、浅黄色《あさぎいろ》の襦袢《じゅばん》の襟《えり》のよく似合うほどの少年だった。
「あれからもう十一年にもなりますか。そ
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