ざわざ妻籠まで相談に行って来たお民と同じ心配を分けないではない。年ごろの娘を持つ母親の苦労はだれだって同じだと言いたげなお民の顔色を読まないでもない。まだお粂にあわない人は、うわさにだけ聞いて、どんなやせぎすな、きゃしゃな子かと想像するが、あって見て色白な肥《ふと》ったからだつきの娘であるには、思いのほかだとよく人に言われる。そのからだにも似合わないような傷《いた》みやすい小さなたましいが彼女の内部《なか》には宿っていた。お粂はそういう子だ。父祖伝来の問屋役廃止以来、本陣役廃止、庄屋役廃止と、あの三役の廃止がしきりに青山の家へ襲って来る時を迎えて見ると、女一生の大事ともいうべき親のさだめた許嫁《いいなずけ》までが消えてゆくのを見た彼女は、年取った祖母たちのように平気でこの破壊の中にすわってはいられなかった子だ。伊那の南殿村、稲葉の家との今度の縁談がおまんの世話であるだけに、その祖母に対しても、お粂は一言《ひとこと》口出ししたこともない。半蔵らの目に映るお粂はただただひとり物思いに沈んでいる娘である。
ふと、半蔵は歩きながら思い出したように、店座敷の方へ通う廊下の板を蹴《け》った。机の上にも、床の間にも、古書類が積み重ねてある自分の部屋《へや》へ行ってから、また彼は山林の問題を考えた。
「あれはああと、これはこうと。」
半蔵のひとり言だ。
隣家からは陰ながら今度の嘆願書提出のことを心配して訪《たず》ねて来る伏見屋の伊之助があり、妻籠までお民が相談に行った話の様子も聞きたくて、その日の午後のうちには半蔵も馬籠を立てそうもなかった。伊之助は福島支庁の主任のやり口がどうも腑《ふ》に落ちないと言って、いろいろな質問を半蔵に出して見せた。たとえば、この村々に檜《ひのき》類のあるところは人民の私有地たりともことごとく官有地に編み入れるとは。また、たとえば、しいてそれを人民が言い立てるなら山林から税を取るが、官有地にして置けばその税も出さずに済むとはの類《たぐい》だ。
廃藩置県以来、一村一人ずつの山守《やまもり》、および留山《とめやま》見回りも廃されてから、伊之助もその役から離れて帯刀と雑用金とを返上し、今では自家の商業に隠れている。この人は支庁主任の処置を苦々《にがにが》しく思うと言い、木曾谷三十三か村の人民が命脈にもかかわることを黙って見ていられるはずもないが、自分一個としてはまずまず忍耐していたいと言って帰って行く。やがて、夕飯にはまだすこし間のあるころに、半蔵は妻と二人《ふたり》ぎりで店座敷に話すことのできる時を見つけた。
「いや、お粂のやつが妙なことを言い出した。」
とその時、半蔵は娘のことをお民の前に持ち出した。彼はその言葉をついで、
「何さ。おれが王滝へ行くなら、あれも一緒に供をさせてくれと言うんさ。」
「まあ。」
「御嶽里宮《おんたけさとみや》のことはあれも聞いて知ってるからね、何かお参りでもしたいようなあれの口ぶりさ。」
「そんな話はわたしにはしませんよ。」
「あれも思い直したんだろう。なんと言ってもお粂もまだ若いなあ。おれがあのお父《とっ》さんの病気を祷《いの》りに行った時にも、勝重《かつしげ》さんが一緒について行くと言って困った。あの時もおれは清助さんに止められて、あんな若い人を一緒に参籠《さんろう》に連れて行かれますかッて言われた。それでも勝重さんは行きたいと言うもんだから、しかたなしに連れて行った。懲りた。今度はおれ一人だ。それに娘なぞを連れて行く場合じゃない。ごらんな、十八やそこいらで、しかも女の足で、あんなお宮の方へ行かれるものかね。ばかなッて、おれはしかって置いたが。」
「まあ、嫁入り前のからだで、どうしてそんな気になるんでしょう。」
夫婦の間にはこんな話が出る。お民はわざわざ妻籠まで行って来た娘の縁談のことをそこへ言い出そうとして、幾度となく口ごもった。相談らしい相談もまとまらずじまいに帰って来たからであった。半蔵の方で聞きたいと思っていたことも、それについての妻籠の人たちの意見であるが、お民はまず生家《さと》に着いた時のことから、あの妻籠旧本陣の表庭に手造りの染め糸を乾《ほ》していたおばあさんやお里を久しぶりに見た時のことからその話を始める。着いた日の晩に、和助を早く寝かしつけて置いて、それからおばあさんや兄や嫂《あによめ》と集まったが、お粂のようすを生家《さと》の人たちの耳に入れただけで、その晩はまだ何も言い出せなかったという話になる。「フム、フム。」と言って聞いていた半蔵は話の途中でお民の言葉をさえぎった。
「つまり、おばあさんたちはどう言うのかい。」
「まあ、兄さんの意見じゃ、この縁談はすこし時がかかり過ぎたと言うんですよ。もっとずんずん運んでしまうとよかったと言うんですよ。」
「いや、おれは今、そんなことを聞いてるんじゃない。つまり、どうすればいいかッて聞いてるんさ。」
「ですから、お里さんの言うには、まだ御祝言《ごしゅうげん》には間もあることだし、そのうちにはお粂の気も変わるだろうから、もうすこし様子を見るがいいと言うんですよ。そうはっきりした考えがお粂の年ごろにあるもんじゃない。お里さんはその意見です。気に入った小袖《こそで》でも造ってくれてごらん、それが娘には何よりだッて、おばあさんも言っていました。」
そんな話から、お民は娘のためにどんな着物を選ぼうかの相談に移って行った。幸い京都|麩屋町《ふやまち》の伊勢久《いせきゅう》は年来懇意にする染め物屋であり、あそこの養子も注文取りに美濃路《みのじ》を上って来るころであるから、それまでにあつらえる品をそろえて置きたいと言った。どんな染め模様を選んだら、娘にも似合って、すでに結納《ゆいのう》の品々まで送って来ている南殿村の人たちによろこんでもらえるだろうかなぞの相談も出た。
「そういうこまかいことは、お母《っか》さんやお前によろしく頼む。」
「あなたはそれだもの。なんにもあなたは相談してくださらない。」
「そんなお前のようなことを言ったって、おれだって、今――」
「そりゃ、あなたのいそがしいぐらい、知ってますよ。あなたのように一つ事に夢中になる人を責めたってしかたない。まあ、する事をしてください。お粂のしたくはお母さんと二人でよく相談します。あなたはいったい、わたしの話すことを聞いているんですか……」
それぎりお民は口をつぐんでしまって、半蔵のそばに畳を見つめたぎり、身動きもしなかった。長いこと夫婦は沈黙のままで相対していた。奥の部屋《へや》の方に森夫らのけんかする声を聞きつけて、やっとお民はその座を立ち、自分の子供を見に行った。いつものように夕飯の時が来ると、家のもの一同広い囲炉裏ばたに集まったが、旧本陣時代からの習慣としてその囲炉裏ばたには家長から下男までの定められた席がある。子供らの食事する席にも年齢《とし》の順がある。やがて隠居所から通《かよ》って来るおまんをはじめ、一日の小屋仕事を終わった下男の佐吉までがめいめいの箱膳《はこぜん》を前に控えると、あちらからもこちらからも味噌汁《みそしる》の椀《わん》なぞを給仕するお徳の方へ差し出す。お民は和助をそばに置いて、黙って食った。半蔵は継母の顔をながめ、姉娘のお粂が弟たちと並んでいる顔をながめ、それからお民の顔をながめて、これも黙って食った。その晩、彼は店座敷の方にいて、翌朝王滝へ出かけるしたくなぞしたが、ろくろく口もきかないでいるお民をどうすることもできなかった。実に些細《ささい》なことが人を傷《いた》ませる。彼に言わせると、享保以前までの彼の先祖はみな無給で庄屋を勤めて来たくらいで、村の肝煎《きもいり》とも百姓の親方とも呼ばれたものである。その家に生まれた甲斐《かい》には、せめてこういう時の役に立ちたいものだとは、日ごろの彼の願いであって、あえておろそかにするつもりで妻子を顧みないではないのにと、彼はこれまで用意した嘆願書を筑摩県本庁の方へ持ち出しうる日のことを考えて、わずかに心を慰めようとした。木曾谷中に留山と明山との区別もなかった時分の木租のことを万一本庁の官吏から尋ねられた場合にはと、自分で自分に問うて見る。それに答えることは、そう困難でもなかった。ずっと以前の山地に檜榑《ひのきくれ》二十六万八千余|挺《ちょう》、土居《どい》四千三百余|駄《だ》の木租を課せられた昔もあるが、しかもその木租のおびただしい運搬川出し等の費用として、人民の宅地その他の課税は差し引かれたも同様に給与せられたと答えることができた。その晩は、彼は香蔵からもらった手紙をも枕《まくら》もとに取り出し、あの同門の友人が書いてよこした東京の便《たよ》りを繰り返し読んで見たりなぞして、きげんの悪い妻のそばに寝た。
王滝行きの日は半蔵は早く起きて、活《い》きかえるような四月の朝の空気を吸った。お民もまたきげんを直しながら夫が出発のしたくを手伝うので、半蔵はそれに力を得た。彼は好きで読む歌書なぞを自分の懐中《ふところ》へねじ込んだ。というは、戸長の勤めの身にもわずかの閑《ひま》を盗み、風雅に事寄せ、歌の友だちを訪《たず》ねながら、この総代仲間の打ち合わせを果たそうとしたからであった。
「どうだ、お民。だれかに途中であって、どちらへなんて聞かれたら、おれはこの懐中《ふところ》をたたいて見せる。」
と彼は妻に言って見せた。そういう彼は袴《はかま》を着け、筆を携え、腰に笛もさしていた。
「まあ、おもしろい格好だこと。」とお民は言って、そこへ飛んで来た娘にも軽々とした夫のみなりをさして見せて、「お粂、御覧な、お父《とっ》さんは笛を腰にさしてお出かけだよ。」
「はッ、はッ、はッ、はッ。」
半蔵は妻の手から笠《かさ》を受け取りながら笑った。
「お粂、王滝のお宮の方へ行ったら、お前の分もお参りして来てやるよ。」
との言葉を彼は娘にも残した。
したくはできた。そこで半蔵は飄然《ひょうぜん》と出かけた。戸長の旅費、一日十三銭の定めとは、ちょっと後世から見当もつかない諸物価のかけ離れていた時代だ。それも戸敷割でなしに、今度は彼が自分|賄《まかな》いの小さな旅だった。馬籠から妻籠まで行って、彼はお民の生家《さと》へ顔を出し、王滝行きの用件を寿平次にも含んで置いてもらって、さらに踏み慣れた街道を奥筋へと取った。妻籠あたりで見る木曾谷は山から伐り出す材木を筏《いかだ》に組んで流す冬期の作業のための大切な場所の一つにも当たる。その辺まで行くと、薄濁りのした日も緑色にうつくしい木曾川の水が白い花崗《みかげ》の岩に激したり、石を越えたりして、大森林の多い川上の方から瀬の音を立てながら渦巻《うずま》き流れて来ている。
四
「老先生へも久しくお便《たよ》りしない。」
野尻《のじり》泊まりでまた街道を進んで行くうちに、半蔵はそんなことを胸に浮かべた。馬籠を立ってから二日目の午後のこと、街道を通る旅人もすくなくない。猿《さる》を背中にのせた旅の芸人なぞは彼のそばを行き過ぎつつある。あくせくとしたその奔走の途中にふと彼は同門の人たちの方へ思いを馳《は》せ、師平田|鉄胤《かねたね》の周囲にある先輩らをも振り返って見た。木と木と重なり合う対岸の森の深さが、こちらの街道から見られるようなところだ。
「及ばずながら、自分も復古のために働いている。」
その考えが彼を励ました。彼も、師を忘れてはいなかった。
家に置いて来た娘お粂のことも心にかかりながら、半蔵はその足で木曾の桟《かけはし》近くまで行った。そこは妻籠あたりのような河原《かわら》の広い地勢から見ると、ずっと谷の狭《せば》まったところである。木曾路での水に近いところである。西よりする旅人は道路に迫った崖《がけ》に添い、湿っぽい坂を降りて行って、めずらしい草や苔《こけ》などのはえている岩壁の下の位置に一軒の休み茶屋を見いだす。半蔵もそこまで行って汗をふいた。偶然にも、通弁の男を連れ、荷物をつけた馬を茶屋の前に停《と》めて、半蔵のそばへ来て足を休める一人の旅
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