にも驚き、そこに疲弊した宿村の救いを見いだそうとしたことは無理だったろうか。彼らが復古のできると思った証拠には、最初の嘆願書にも御誓文の中の言葉を引いて、厚い慈悲を請う意味のことを書き出したのでもわかる。やがて、筑摩県の支庁も木曾福島の方に設けられ、権中属《ごんちゅうぞく》の本山盛徳が主任の官吏として木曾の村々へ派出される日を迎えて見ると、この人はまた以前の土屋総蔵なぞとは打って変わった態度をとった。もしも人民の請いをいれ、木曾山を解き放ち、制度を享保以前の古に復し、これまで明山《あきやま》ととなえて来た分は諸木何品に限らず百姓どもの必要に応じて伐《き》り採ることを許したなら、せっかく尾州藩で保護して来た鬱蒼《うっそう》とした森林はたちまち禿山《はげやま》に変わるであろうとの先入主となった疑念にでも囚《とら》われたものか、本山盛徳は御停止木の解禁なぞはもってのほかであるとなし、木曾谷諸村の山地はもとより、五種の禁止木のあるところは官木のあるところだとの理由の下に、それらの土地をもあわせすべて官有地と心得よとの旨《むね》を口達した。この福島支庁の主任が言うようにすれば、五木という五木の生長するところはことごとく官有地なりとされ、従来の慣例いかんにかかわらず、官有林に編入せられることになる。これには人民一同|狼狽《ろうばい》してしまった。


 過ぐる月日の間、半蔵はあちこちの村々から腰縄付《こしなわつ》きで引き立てられて行く不幸な百姓どもを見て暮らした。人民入るべからずの官有林にはいって、盗伐の厳禁を犯すものが続出した。これをその筋の人に言わせたら、規則の何たるをわきまえない無知と魯鈍《ろどん》とから、村民自ら犯したことであって、さらに寛恕《かんじょ》すべきでないとされたであろう。
 それにつけても、まだ半蔵には忘れることのできないずっと年若な時分の一つの記憶がある。馬籠村じゅうのものが吟味のかどで、かつて福島から来た役人に調べられたことがある。それは彼の本陣の家の門内で行なわれた。広い玄関の上段には、役人の年寄《としより》、用人《ようにん》、書役《かきやく》などが居並び、式台のそばには足軽《あしがる》が四人も控えた。村じゅうのものがそこへ呼び出された。六十一人もの村民が腰縄手錠で宿役人へ預けられることになったのも、その時だ。七十歳以上の老年は手錠を免ぜられ、すでに死亡したものは遺族の「お叱《しか》り」ということにとどめられたが、それも特別の憐憫《れんびん》をもってと言われたのも、またその時だ。そのころの半蔵はまだ十八歳の若さで、庭のすみの梨《なし》の木のかげに隠れながらのぞき見をしていたために、父吉左衛門からしかられたことがある。そんなにたくさんなけが人を出したことも、村の歴史としてはかつて聞かなかったことだと父も言っていた。彼はあの役人たちが吟味のために村に入り込むといううわさでも伝わると、あわてて不用の材木を焼き捨てた村の人のあったことを想《おも》い起こすことができる。「昔はこの木曾山の木一本|伐《き》ると、首一つなかったものだぞ」なぞと言って、陣屋の役人から威《おど》されたのもあの時代だ。それほど暗いと言わるる過去ですら、明山《あきやま》は五木の伐採を禁じられていたにとどまる。その厳禁を犯さないかぎり、村民は意のままに山中を跋渉《ばっしょう》して、雑木を伐採したり薪炭《しんたん》の材料を集めたりすることができた。今になって見ると、御停止木の解禁はおろか、尾州藩時代に許されたほどの自由もない。家を出ればすぐ官有林のあるような村もある。寒い地方に必要な薪炭ややせた土を培《つちか》うための芝草を得たいにも、近傍付近は皆官有地であるような場所もある。木曾谷の人民は最初からの嘆願を中止したわけでは、もとよりない。いかに本山盛徳の鼻息が荒くとも、こんな過酷な山林規則のお請けはできかねるというのが人民一同の言い分であった。耕地も少なく、農業も難渋で、生活の資本《もとで》を森林に仰ぎ、檜木笠《ひのきがさ》、めんぱ(割籠《わりご》)、お六櫛《ろくぐし》の類《たぐい》を造って渡世とするよりほかに今日暮らしようのない山村なぞでは、ほとんど毎戸かわるがわる腰縄付きで引き立てられて行くけが人を出すようなありさまになって来た。半蔵らが今一度嘆願書の提出を思い立ち、三十三か村の総代として直接に本県へとこころざすようになったのも、この郷里のありさまを見かねたからである。
 この再度の奔走をはじめる前、半蔵のしたくはいろいろなことに費やされた。明治五年の二月に、彼は早くも筑摩県庁あて嘆願書の下書きを用意したが、いかに言っても郡県の政治は始まったばかりの時で、種々《さまざま》な事情から差し出すことを果たさなかった。それからちょうど一年待った。明治六年の二月まで、彼は古来の沿革をたずねることや、古書類をさがすことに自分のしたくを向けた。ある村の惣百姓《そうひゃくしょう》中から他村の衆にあてた証文とか、ある村の庄屋|組頭《くみがしら》から御奉行所に出した一札とか、あるいは四か村の五人組総代から隣村の百姓衆に与えた取り替え証文とかいうふうに。さがせばさがすほど、彼の手に入る材料は、この古い木曾山が自由林であったことを裏書きしないものはなかった。言って見れば、この地方の遠い古《いにしえ》は山にたよって樵務《きこり》を業とする杣人《そまびと》、切り畑焼き畑を開いて稗《ひえ》蕎麦《そば》等の雑穀を植える山賤《やまがつ》、あるいは馬を山林に放牧する人たちなぞが、あちこちの谷間《たにあい》に煙を立てて住む世界であったろう。追い追いと人口も繁殖する中古のころになって、犬山の石川備前守《いしかわびぜんのかみ》がこの地方の管領であった時に、谷中|村方《むらかた》の宅地と開墾地とには定見取米《じょうみとりまい》、山地には木租《ぼくそ》というものを課せられた。もとより米麦に乏しい土地だから、その定見取米も大豆や蕎麦や稗《ひえ》などで納めさせられたが、年々おびただしい木租を運搬したり、川出ししたりする費用として、貢納の雑穀も春秋二度に人民へ給与せられたものである。さて、徳川治世のはじめになって、この谷では幕府直轄の代官を新しい主人公に迎えて見ると、それが山村氏の祖先であったが、諸事石川備前守の旧例によることには変わりはなかった。慶長《けいちょう》年代のころには定見取米を御物成《おものなり》といい、木租を御役榑《おやくくれ》という。名はどうあろうとも、その実は同じだ。この貢納の旧例こそは、何よりも雄弁に木曾谷山地の歴史を語り、一般人民が伐木と開墾とに制限のなかったことを証拠立てるものであった。もっとも、幕府では木租の中を割《さ》いて、白木《しらき》六千|駄《だ》を木曾の人民に与え、白木五千駄を山村氏に与え、別に山村氏には東美濃地方に領地をも与えて、幕府に代わって東山道中要害の地たる木曾谷と福島の関所とを護《まも》らせた。それより後、この谷はさらに尾州の大領主の手に移り、山村氏が幕府直轄を離れて名古屋の代官を承るようになって、尾州藩では山中の区域を定める方針を立てた。巣山《すやま》、留山《とめやま》、明山《あきやま》の区別は初めてその時にできた。巣山と留山とは絶対に人民のはいることを許さない。しかし明山は慶長年間より享保八年まで連綿として人民が木租を納め来たった場所であるからと言って、自由に入山《いりやま》伐木を許し、なお、木租の上納を免ずる代償として、許可なしに五木を伐採することを禁じたのである。
 こんな動かせない歴史がある。半蔵はそれらの事実から、さらにこの地方の真相を探り求めて、いわゆる木曾谷中の御免檜物荷物《ごめんひのきものにもつ》なるものに突き当たった。父吉左衛門が彼に残して行った青山家の古帳にも、そのことは出ている。それは尾州藩でも幕府直轄時代からの意志を重んじ、年々山から伐り出す檜類のうち白木六千駄を谷中の百姓どもに与えるのをさす。それを御免荷物という。そのうちの三千駄は檜物御手形《ひのきものおてがた》ととなえて人民の用材に与え、残る三千駄は御切替《おきりか》えととなえて、この分は追い追いと金に替えて与えた。彼が先祖の一人《ひとり》の筆で、材木通用の跡を記《しる》しつけた御免荷物の明細書によると、毎年二百駄ずつの檜、椹《さわら》の類は馬籠村民にも許されて来たことが、その古帳の中に明記してある。尾州藩ですらこのとおり、山間居住の容易でないことを察し、人民にわかち与えることを忘れなかった。郡県とも言わるる時代の上に立つものが改革の実をあげようとするなら、深くこの谷を注目し、もっと地方の事情にも通じて、生民の期待に添わねばなるまいと彼には思われた。
 嘆願書はできた。二月はじめから四月まで、半蔵はあちこちの村を訪《たず》ね回って、戸長らの意見をまとめることに砕心した。草稿の修正を求める。清書する。手を分けて十五人の総代の署名と調印とを求めに回る。いよいよ来たる五月十二日を期して、贄川《にえがわ》、藪原《やぶはら》、王滝《おうたき》、馬籠《まごめ》の四か村から出るものが一同に代わって本庁の方へ出頭するまでの大体の手はずをきめる。彼も心から汗が出た。この上は、御嶽山麓《おんたけさんろく》の奥にある王滝村を訪ねさえすれば、それで一切の打ち合わせを終わるまでにこぎつけた。彼はそれを早く済まして来るつもりで、自分の村方の用事を取りかたづけ、学校の子供の世話は松雲和尚に頼み、今は妻の帰りを待って王滝の方へ出かけられるばかりになった。
 こういう中で、彼は自分のそばへ来る娘の口から、ちょっと思いがけないことを聞きつけないでもなかった。
「お父《とっ》さん、おねがいですから、わたしもお供させて。」
 そのこころは、父の行く寂しい奥山の方へ娘の足でもついて行かれないことはあるまいというにあるらしい。
 これには半蔵も返事にこまった。いろいろにお粂《くめ》を言いなだめた。娘も妙なことを言うと彼は思ったが、あれもこれもと昼夜心を砕いた山林の問題が胸に繰り返されていて、お粂の方で言い出したことはあまり気にも留めなかった。

       三

 お民は妻籠《つまご》の生家《さと》の話を持って、和助やお徳を連れながらそこへ帰って来た。
「お民、寿平次さんはなんと言っていたい。」
「木曾山のことですか。兄さんはなんですとさ、支庁のお役人がかわりでもしないうちはまずだめですとさ。」
「へえ、寿平次さんはそんなことを言っていたかい。」
 半蔵夫婦はこんな言葉をかわしたぎり、ゆっくり話し合う時も持たない。妻籠|土産《みやげ》の風呂敷包《ふろしきづつ》みが解かれ、これは宗太に、これは森夫にと、留守居していた子供たちをよろこばせるような物が取り出されると、一時家じゅうのものは妻籠の方のうわさで持ち切る。妻籠のおばあさんからお粂にと言って、お民は紙に包んだ美しい染め糸なぞを娘の前にも取り出す。お徳の背中からおろされた四男の和助はその皆の間をはい回った。
 半蔵はすでに村の髪結い直次を呼び寄せ、伸びた髭《ひげ》まで剃《そ》らせて妻を待ち受けているところであった。鈴《すず》の屋《や》の翁《おきな》以来、ゆかりの色の古代紫は平田派の国学者の間にもてはやされ、先師の著書もすべてその色の糸で綴《と》じられてあるくらいだが、彼半蔵もまたその色を愛して、直次の梳《す》いてくれたのを総髪《そうがみ》にゆわせ、好きな色の紐《ひも》を後ろの方に結びさげていた。吉左衛門の時代から出入りする直次は下女のお徳の父親に当たる。
「お民、おれは王滝の方へ出かけるんだぜ。」
 それをみんなまで言わせないうちに、お民は夫の様子をみて取った。妻籠の兄を見て来た目で、まったく気質のちがった夫の顔をながめるのも彼女だ。その時、半蔵は店座敷の方へ行きかけて、
「おれは、いつでも出かけられるばかりにして、お前の帰りを待っていたところさ。お前の留守に、お母《っか》さんの枕屏風《まくらびょうぶ》もできた。」
 そういう彼とても、娘の縁談のことでわ
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