昔からの村の人たちの癖だ。
こんな空気の中で、庄助らが半蔵を見に行くと、どうもお師匠さまのようすがよくないという清助と落ち合った。半蔵の方でもだえればもだえるほど、今ここでそんな人に木小屋から飛び出されては困るという腹は庄助らにだってある。近年まれなものが降って陽気もまた非常に寒くなったが、お師匠さまもどうしているか、その見舞いを言い入れに来た庄助らは何よりもまず半蔵が格子の内から呼ぶ荒々しい声に驚かされた。
「さあ、攻めるなら攻めて来い。矢でも鉄砲でも持って来い。」
血相を変えている半蔵がようすの尋常でないことは、雹《ひょう》どころの騒ぎではなかった。もはや半蔵は敵と敵でないものとの区別をすら見定めかぬるかのよう。そして、この世の戦いに力は尽き矢は折れてもなおも屈せずに最後の抵抗を試みようとするかのように、自分で自分の屎《くそ》をつかんでいて、それを格子の内から投げてよこした。庄助の方へも、勝之助の方へも、清助の方へも。
「お師匠さま、何をなさる。」
庄助はあさましく思うというよりも、仰天してしまった。その時、声を励まして、半蔵を制するように言ったのも庄助だ。
「や、また敵が襲って来るそうな。おれは楠正成《くすのきまさしげ》の故知を学んでいるんだ。屎合戦《くそがっせん》だ。」
旧組頭なぞの制することも半蔵の耳に入らばこそだ。これまで幽閉の苦しみを忍びに忍んで来た彼は手をすり足をすりして泣いても足りなかったというふうで、なおも残りの屎を投げてよこそうとする。木小屋の土間にいてあちこちと避け惑うものの中には、どうかするとそこへすべってころびそうになった。ぷんとした臭気は激しく庄助らの鼻をついた。
「これはたまらん。」
と言い出した清助をはじめ、庄助も、勝之助も、その土間の片すみに壁によせて置いてある蓆《むしろ》の類を見つけ、あり合うものを引きかぶって逃げた。
六
万事終わった。半蔵がわびしい木小屋に病み倒れて行ったのはそれから数日の後であったが、月の末にはついに再びたてなかった。旧本陣の母屋《もや》を借りうけている医師小島拙斎も名古屋の出張先から帰って来ていて、最後まで半蔵の病床に付き添い、脚気衝心《かっけしょうしん》の診断を下した。夜のひき明けに半蔵が息を引き取る前、一度大きく目を見開いたが、その時はもはや物を見る力もなかった。もとよりお民らに呼ばれても答える人ではなかった。享年五十六。五人もある子の中で彼の枕《まくら》もとにいたものは長男の宗太ばかり。お粂《くめ》ですら父の臨終には間に合わなかった。
その暁から降り出した雨はやみそうもない。裏藪《うらやぶ》の竹の葉にそそぐ音だけでも、一雨ごとにこの山里へ冬のやって来ることを思わせる。お民らが半蔵の枕もとに付いていてほのかな鶏の声をきいたころに、彼はすでにこの世の人ではなかったのであるが、時を置いて彼の顔をのぞきに行くたびに、雨に暗い空も明けて行き、青白い光線は東南の間にあたる高い窓からその部屋《へや》へさし入って来た。やがて皆のものがうち寄って半蔵のからだをぬぐい浄《きよ》めるころは、そこいらはもう朝だ。遺骸《いがい》は青い蓙《ござ》の上に横たわり、枕の位置も変わって見ると、病床もすでに死の床ではあったが、しかしお民らの目にはまだ半蔵がそこに眠っているかのようであった。
栄吉、清助、庄助、勝之助らは前後して木小屋に集まりつつあった。隣家からは二代目伊之助の顔も見えた。半蔵が二人の若い弟子、伏見屋の三郎と梅屋の益穂《ますほ》とがこんな時の役に立とうとして皆の間に立ちまじっているさまも可憐《かれん》であった。一刻も早く遺骸は他《よそ》へ移したい、こんな忌まわしい座敷牢《ざしきろう》の中には置きたくない、とは一同のものの願いであったが、さて母屋《もや》の方へ移すべきか、隠宅の静の屋の方へ移すべきかの話になると、各自意見もまちまちで相談は容易にまとまらなかった。母屋をえらびたいのは山々だが、現在医師の開業しているところを明け渡させるのはたとい二、三日でも故人の本意ではなかろうと言うものがある。そうかと言って、あの静の屋のような狭い小楼からお師匠さまの葬式が出せるかと言うものがある。この事は、拙斎自身の申し出で母屋と一決した。馬籠の庄屋と本陣問屋とを兼ねた最後の人を見送る意味からも、古い歴史のある記念の家をこころよく使用してもらいたいとは、拙斎が申し出であった。
雨は降ったりやんだりしているような日であったが、すこし小降りになった時を見て、半蔵の遺骸《いがい》には蓑《みの》をかけ、やがて木小屋から運び出されることになった。多感な光景がそこにひらけた。生前古い青山の家にはもはや用のないような人間だとよく言い言いしたその半蔵も変わり果てた姿となって、もう一度旧本陣の屋根の下へと帰って行ったのである。その旧主人の死体を蒲団《ふとん》ぐるみ抱きかかえながら木小屋から母屋《もや》へと持ち運んだのは、おもに下男佐吉の力であった。それには以前に出入りした百姓仲間の兼吉や桑作の手伝いもあった。宗太はじめ、三郎、益穂らはいずれも雨傘《あまがさ》をさしかけて、その前後を護《まも》って行った。
半蔵の死が馬籠以外の土地へも通知されて行くころには、近在から弔《くや》みを言い入れに集まる旧《ふる》い弟子たちもすくなくなかったが、その中でだれよりも先に急いで来たものは落合の勝重であった。
勝重が思い出の深い本陣屋敷に来て見た時は、師匠の遺骸はすでに奥の上段の間の隣り座敷に安置してあった。彼はまず青山の家族にあって、長い看護に疲れ顔なお民にも、七十八歳の高齢で義理ある子を先立てたおまんにも、それから宗太夫婦にも厚く弔みを述べた。奥座敷の方へも進んで行って、神葬の古式による清げな白木の壇の前にひざまずき、畳の上に額《ひたい》をすりつけて、もはやこの世の一切の悲しいや苦しいも越えているように厳粛《おごそか》な師匠の死顔を拝した。まだ棺もできては来ず、荒町の禰宜《ねぎ》の顔も見えなかったが、そこいらには馬籠町内の重立った人たちも集まっていた。埋葬の場処は、と勝重が宗太に尋ねると、家政改革後は倹約第一の場合ででもあるから、万福寺山腹に古くからある墓地の片すみをえらむことにして、そのことはすでに寺へも通じてあるという。これには勝重はひどく残念がって、なんとかしてもっと適当な場処を求めなるべく手厚く師匠を葬りたいと言い、墓地続きの寺の畠《はたけ》でも譲り受けられるなら、及ばずながらその費用等は自分ら弟子仲間で心配するとの意見をそこへ持ち出した。というのは、青山家の墓地も先祖代々のたくさんな墓石で埋《うず》められ、ほとほと割り込むすきもないことを勝重もよく知っていたからであった。
「どうも、お弟子が来て厄介《やっかい》なことを言い出したぞ。」
宗太の目がそれを言った。でも、こんなに父の死を惜しんでくれる人たちもあるというその熱い情《こころ》に動かされて、宗太も倹約一方の説を覆《くつがえ》し、結局勝重の意見をいれた。栄吉や清助は宗太の意を受けて、改めて埋葬の地を相するため雨の中を出かけた。
悲しい夜が来た。霊前には親戚《しんせき》旧知のものが集まったが、一同待ち受ける妻籠《つまご》からの寿平次、実蔵、それに木曾福島からのお粂《くめ》夫婦はまだ見えなかった。なんと言っても旧本陣のことで、以前から縁故の深かった十三人の百姓の家のもの、大工、畳屋から髪結いまでがそこへ来て、半蔵生前の話が尽きない。あるものは子供の時分、本陣の裏庭へ巴旦杏《はたんきょう》を盗みに忍び入って、うしろからうんと一つどやしつけられたが、その人がお師匠さまであったことは今だに忘れられないとの話をはじめる。その話をはじめたものはまた、半蔵が袂《たもと》の中にいっぱい蜜柑《みかん》を入れていてよく村の児童《こども》に分け与えるような幼いものの友だちであったと言い、自分もまたその蜜柑に誘われてお師匠さまの家に通いはじめ、その時から読み書きの道を覚えたことも忘れられないなぞと語り出す。
明治十九年十一月二十九日の夜のことで、戸の外へはまた深い山の雨が来た。勝重はその初冬らしい雨の音をききながら、互いに膝《ひざ》をまじえている村の人たちの思い出に耳を傾けて、そんな些細《ささい》な巴旦杏や蜜柑の話に残る師匠が人柄のゆかしさを思った。
翌日の午後、勝重は伏見屋の主人(二代目伊之助)と連れだって万福寺の門前に出た。寺より譲り受ける墓地の交渉もまとまったので、勝重らはその挨拶《あいさつ》を兼ね、ついでに師匠を葬るべき場所を見回りたいためであった。なお、師匠の葬儀は十二月|朔日《ついたち》と定《き》まったので、寺の境内を式場に借りうけるため、宗太から頼まれて来た打ち合わせの用事もあった。この事は青山小竹両家が神葬改典の当時に、半蔵や初代伊之助と松雲和尚との間にかわされた口約束による。勝重もほとんど不眠の一夜を師匠の霊前に送ったあとなので、懇意な伏見屋方で二時間ばかり寝かしてもらったが、またその日には妻籠の連中やお粂夫婦を迎えて今一夜師匠の棺の前に語り明かすはずである。おまけに、次ぎの日の葬儀を控えている。でも、男ざかりの彼は、どんな無理してもこの激しい疲労に打ち勝ち、生前格別の世話になった師匠の温情にむくいようとした。
ちょうど松雲和尚は、万福寺建立以来の青山家代々が恩誼《おんぎ》を思い、ことに半蔵とは敬義学校時代のよしみもあるので、和尚は和尚だけのこころざしを受けてもらいに、旧本陣まで今々行って来たというところであった。松雲は勝重らを方丈に迎え入れ、寺の境内を今度の式場にあてるための準備もすでにほぼ整えてあること、墓地の譲り渡し等にも寺としてはできるだけの便宜を払ったことを勝重らに告げ、茶菓なぞ取り出していんぎんに二人の客をもてなした。そして、例の禅僧らしい沈着な調子で、勝重らに聞いてもらいたいことがあると言い出した。半蔵があんな放火を企てたのは全くの狂気《きちがい》ざたと考えるかと二人に尋ね、和尚にはそうばかりとも思われないと言うのであった。どうして松雲がそんな疑いを抱《いだ》くかというに、平田門人としての半蔵が寺院ももはや無用な物であるとの口吻《こうふん》をもらしたのは晩年にはじまったことでもなく、上は諸大名から下は本陣、問屋、庄屋、組頭、それから五人組の廃された当時、すでにすでに半蔵はその考えを起こしていて、僧侶《そうりょ》もまた同じように廃さるべきものとしたろうと松雲には想《おも》い当たるからであった。松雲は半蔵の創立した敬義学校に事を共にして見て、この寺の本堂を児童教育の仮教場にあてた際に、早くも半蔵の意のあるところを感知したのであったという。これは全く廃仏を意味する。また、全くの白紙に帰って行くことを意味する。信教自由の認められて来た今日、こんな山の上の寺を焼き払うような挙動は、子供らしいと言えばそれまでだが、しかしその道徳上の効果はちいさいとは言いがたい。半蔵のはそれをねらったものではなかろうか。もともと心ある仏徒が今日目をさますようになったというのも、平田諸門人が復古運動の刺激によることであって、もしあの強い衝動を受けることがなかったなら、おそらく多くの仏徒は徳川時代の末と同じような頽廃《たいはい》と堕落とのどん底に沈んでいたであろう。半蔵は例の持ち前の凝り性と感情とに駆られて、教部省のやり口に安んじられず、信教自由をも不徹底なりとして、ついにこんな結果を招いたものとしか思われない。これが松雲一流のにらみ方であった。そういう和尚は半蔵のために、もうすこしでこの寺の本堂を焼かれようとした当面の人であるだけに、半蔵の不思議な行為を謎《なぞ》としてのみ看過《みす》ごすことはできなかったと訴えるのであった。もっとも、松雲は今までだれにもこんなことを口外する人ではなかった。半蔵の死にあって見て、勝重らにこれを告げるのであるという。その時、勝重は眉《まゆ》の白い和尚の顔をしげしげと見つめて、
「和尚さま
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