ためである。廃藩といい、廃仏ということも、その真相は土地と人民との問題であった。この景蔵の見地よりすれば、維新の成就をめがけ新国家建設の大業に向かおうとした人たちが互いに呼吸を合わせながら出発した当時の人の心はすくなくも純粋であった。彼景蔵のような草叢《くさむら》の中にあるものでも平田一門の有志と合力し、いささかこの盛時に遭遇したものであるが、しかし維新の純粋性はそう長く続かなかった。きびしい意味から言えば、それが三年とは続かなかった。武家と僧侶との二つの大きな勢力が覆《くつがえ》されて行くころは、やがて出発当時の新鮮な気象もまた失われて行く時であった。そこには勝利があるだけだった。
 それぎり景蔵は口をつぐんで、同門の人たちのことについてもあまり多くを語ろうとはしなかった。勝重は思い出したように、
「そう言えば、浅見さん、わたしどもが明治維新の成り立ったことを知ったのは、馬籠のお師匠さまより一日ほど早かったんです。今になってわたしもいろいろなことを考えますが、あの時分はまだ子供でした。一晩寝て、目がさめて見たら、もう王政復古が来ていた――そんなことを言って、あの蜂谷《はちや》さん(故香蔵のこと)には笑われるくらいの子供でした。蜂谷さんはあんたからの手紙を受け取って、まだ馬籠じゃこんな復古の来たことも知らずにいるんじゃないか、この手紙は早く半蔵さんにも読ませたいと言って、その途中にわたしをも誘ってくだすったんです。忘れもしません、あれは慶応二年の十二月でした。街道は雪でまッ白でした。わたしは蜂谷さんと二人でさくさく音のする雪を踏んで、この峠を登って来たものでした。」
「そうでしたよ。ちょうど、わたしは京都の方でしたよ。あの手紙は伊勢久《いせきゅう》の店のものに頼んで、飛脚で出したように覚えています。」と景蔵が言う。
「まあ、聞いてください。馬籠のお師匠さまも虫が知らせたと見えて、荒町の方からやっておいでなさる。行きあって尋ねて見ますと、これから中津川へ京都の方の様子をききに行くつもりで家を出て来たところだとおっしゃる。そんならちょうどいい、お師匠さまも中津川まで行かずに済むし、わたしどもも馬籠まで行かずに済む、峠の上で話そうじゃないかということになりまして、それから三人で大いに話したのも、この茶屋でした。」
「あれから足掛け二十年の月日がたちますものね。」
 御休処《おやすみどころ》とした古い看板、あるものは青くあるものは茶色に諸|講中《こうじゅう》のしるしを染め出した下げ札、それらのものの軒にかかった新茶屋で、美濃から来たもの同志こんなことを語り合った。気まぐれな秋風は来て旧い街道を吹きぬけて行った。
 中津川をさして帰って行く景蔵にもその十曲峠の上で別れて、やがて勝重は新茶屋を出た。路傍の右側に立つ芭蕉《ばしょう》の句碑の前あたりには、石に腰掛け、猿《さる》を背中からおろして休んで行く旅の渡り者なぞもある。もはや木曾路経由で東京と京都の間を往復する普通の旅客も至ってすくなかったが、中央の交通路としてはこの深い森林地帯を貫く一筋道のほかにない。勝重は中のかやから、荒町の出はずれまで歩いて行って、飯田《いいだ》通いの塩の俵をつけた荷馬の群れに追いついた。
 その辺まで行くと、かなたの山腹に倚《よ》るこんもりとした杉《すぎ》の木立ちの光景が勝重の目の前にひらけて来る。万福寺はそこに隠れているのだ。本堂の屋根も杜《もり》のかげになって見ることはかなわなかったが、しかし彼は馬籠の村社|諏訪《すわ》分社のみすぼらしさに思い比べて、山腹に墳墓の地を抱《いだ》くあの古い寺が長い間の村の中心の一つであったことを容易に想像することはできた。あだかも、遠い中世の昔はまだそんなところにも残って、朝晩の鐘に響きを伝えているかのように。
 馬籠峠の上は幾層かの丘より成る順登りの地勢で、美濃よりする勝重には一つの坂を越したかと思うと、また一つの坂を登らねばならないようなところだ。浅い谷がある。土橋がある。谷川も走り流れて来ている。その水を渡って、岩石の多い耕地が道の左右に見られるところへ出ると、彼は新茶屋での景蔵の話を思い出して深いため息をついた。さらに石を敷きつめた坂を登って馬籠の町はずれへ出ると、彼はこれから見舞おうとする旧い師匠が前途のことを想《おも》い見て、これにもまた深いため息をついた。


 その日、勝重はかねて懇意にする伏見屋に一晩泊めてもらうつもりであったから、旧本陣をあと回しにして、まず二代目伊之助の家族を訪《たず》ねた。そこには先代の遺志をついでなにくれとなくお民らの力になる二代目夫婦があり、これまで半蔵の教えを受けて来た三郎やお末のような師匠思いの兄妹《きょうだい》があり、今となって見れば先代伊之助を先立ててよかったと言って、もしあの先代がいまだに達者《たっしゃ》でいたら、どんなに今ごろは心を傷《いた》めたろうと言って見る未亡人のお富があり、日に一度は必ず隣家の木小屋を見回ることを怠らない番頭格の清助もある。季節がら、木曾の焼き米でも造ったおりは、まずお師匠さまへと言って、日ごろその青い香のするやつを好物にする半蔵がもとへ重詰めにして届けることを忘れないのもこの家族だ。
 その足で勝重は旧本陣の方に見舞いを言い入れに行った。裏の木小屋まで行かないうちに、彼はお民にあって、師匠のことをたずねると、お民の答えには、この二、三日ひどく疳《かん》の起こっているようすであるとのこと。彼女は病人の看護も容易でないと言って、村の人たちへは気の毒でならないとの意味を通わせる。
「奥さん、」と勝重は言った。「酒はお師匠さまには禁物《きんもつ》でしょうが、ああして置いたら自然とおからだが弱りはしまいますまいか。いくら御謹慎中でも、すこしはお勧めした方がいい。そう思いましてね、今日はほんのすこしばかり落合の酒を持参して見ました。これは人には話さずに置いてください。あとで奥さんにお預けしてまいりますから、すこしずつ内証であげて見ていただきたい。」
 そういう勝重が羽織のかげに隠し腰に着けている一つの瓢箪《ふくべ》をお民に出して見せ、それから勝手を知った木小屋の方へ行こうとしたので、お民はちょっと勝重の袖《そで》を引きとめて言った。
「勝重さん、うっかりうちのそばへは行かれません。ほんとに病人というものは油断がならないとわたしも思いましたよ。こないだも、うちがしきりに呼ぶものですから、何の気なしにわたしは格子の前へ行って立ったことがありました。お民、ちょっとおいで、ちょっとおいで、そんなことを言って、あの格子の内から手招きするじゃありませんか。どうでしょう、そのわたしの手をつかまえて力任せになかへ引きずり込もうとしました。あの時は、もうすこしでこの腕がちぎれるかと思いました。勝重さん、あなたも気をつけてくださいよ。」
 座敷牢での朝夕はこんなに半蔵をさびしがらせるのだ。勝重は、さもあろうというふうにお民の話をきいた後、やがて木小屋の周囲《まわり》に人のないのを見すまして、例の荒い格子の前まで近づいた。
「敵が来る。」
 師匠の声だ。それは全く外界との交渉も絶え果てたような人の声だ。その声がまず勝重の胸を騒がせる。
「お師匠さま、わたしでございます。勝重でございます。」
 思いがけない弟子《でし》の訪れに、格子の内の半蔵もややわれに帰ったというふうではあった。苦髪楽爪《くがみらくづめ》とやら、先の日に勝重が見に来た時よりも師匠が髭《ひげ》の延び、髪は鶉《うずら》のようになって、めっきり顔色も青ざめていることは驚かれるばかり。でも、師匠は全く本性を失ってはいない。ややしばらく沈黙のつづいた後、
「勝重さん、わたしもこんなところへ来てしまった。わたしは、おてんとうさまも見ずに死ぬ。」
 半蔵は荒い格子につかまりながらそれを言って、愛する弟子の顔をつくづくとながめた。
「そんなお師匠さまのようなことを言わないで……御気分が治まりさえすれば、いつでもあの静の屋の方へお帰りになれますぞ。その時は勝重がまたお迎えにあがります。みんな首を長くしてその日の来るのをお待ち申しています。時に、お師匠さま、ちょうど昔で言えば菊の酒を祝う季節もまいっておりますから、実は瓢箪《ふくべ》にお好きな落合の酒を入れまして、腰にさげてまいりました。しばらくお師匠さまも盃《さかずき》を手にはなさいますまい。」
 勝重が半蔵の見ている前で、腰につけて来た瓢箪の栓《せん》を抜いて、小さな木盃に酒をつごうとした時、半蔵はじっと耳を澄ましながら細い口から流れ出る酒の音をきいていた。そして、コッ、コッ、コッ、コッというその音を聞いただけでも口中に唾《つば》を感ずるかのような喜び方だ。弟子の勧めるまま、半蔵は格子越しにそれをうけて、ほんの一、二|献《こん》しか盃を重ねなかったが、しかし彼はさもうまそうにそのわずかな冷酒を飲みほした。甘露《かんろ》、甘露というふうに。かつてこんなうまい酒を味わったことはないというふうにも。
 看護するものが詰める別室の方には人の来るけはいもしたので、それぎり勝重は半蔵のそばを離れた。師匠と二人《ふたり》ぎりの時でもなければ、こんな話も勝重にはかわされなかったのである。しばらく別室に時を送った後、また勝重は半蔵を見に行こうとして、思わず師匠がひとり言を聞いた。
「勝重さんはどうした。勝重さんはいないか。いや、もういない……こんなところにおれを置き去りにして、落合の方へ帰って行った……師匠の気も知らないで、体裁のよいことばかり言って、あの男も化け物かもしれんぞ。」
 その声を聞きつけると、勝重は木小屋の土間にもいたたまれなかった。彼は裏の竹藪《たけやぶ》の方に出て、ひとりで激しく泣いた。

       五

 恵那山《えなさん》へは雪の来ることも早い。十月下旬のはじめには山にはすでに初雪を見る。十一月にはいってからは山家の子供の中には早くも猿羽織《さるばおり》を着るものがある。百姓が手につかむ霜にも、水仕事するものが皮膚に切れる皸《ひび》あかぎれにも、やがて来る長い冬を思わせないものはない。
 落合の勝重が帰って行ったあとの木小屋には、一層の寂しさが残った。朝晩もまさに寒かった。木小屋の位置は裏山を背にする方が北に当たったから、水の底にでも見るような薄日しか深い竹藪《たけやぶ》をもれて来ない。夜なぞ、ことにそちらの方面は暗く、物すごかった。こんな日の続いて行く中で、座敷牢にいる人が火いじりの危《あぶな》さを考えると、炬燵《こたつ》一つ入れてやって凍えたからだを温《あたた》めさせる術《すべ》もないとしたら。そう思って震えるものは、ひとり夫の看護に余念のないお民ばかりではなかった。
 しかし、もうそろそろ半蔵にその部屋《へや》から出て来てもらってもよかろうと言い出すものは一人《ひとり》もない。お師匠さまには、できるだけ長くその部屋にいてもらいたいと言うものばかり。木小屋の戸締まりは一層厳重になり、見張りのものは交代で別室に詰め、夜番は火の用心の拍子木《ひょうしぎ》を鳴らして、伏見屋寄りの木戸の方から裏の稲荷《いなり》の辺までも回って歩いた。
 ある日の午後、馬籠峠の上へはまれにしか来ないような猛烈な雹《ひょう》が来た。にわかにかき曇った晩秋の空からは重い灰色の雲がたれさがって、雷雨の時などに降る霰《あられ》よりも大粒なやつを木小屋の板屋根の上へも落とした。やがて氷雨《ひさめ》の通り過ぎて空も明るくなったころ、笹屋庄助《ささやしょうすけ》と小笹屋勝之助の両名が連れだってそこいらの見回りに出たが、二人の足は何かにつけて気にかかる半蔵の座敷牢の方へ向いた。途中で二人の行きあう百姓仲間のものに驚き顔でないものはない。あるものは牛蒡《ごぼう》を掘りに行ってこの雹にあったといい、あるものは桑畠《くわばたけ》を掘る最中であったといい、あるものは引きかけた大根の始末をするいとまもなく馬だけ連れて逃げ帰ったという。すこしの天変地異でもすぐそれを何かの暗示に結びつけて言いたがるのは
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